牽制






「出掛けてくる。帰り遅くなるから先に寝てていいぞ。夕飯は作っといたから、チンしてちゃんと食え」

仕事から帰るなり出迎えてくれた高耶が靴を履きながらそう告げるのに、直江は眉間に皺を寄せた。
「出掛けるってどこに・・・」
「ゼミのコンパ」
短く言って、玄関を出ようとした高耶の腕を直江が掴んで引きとめた。
「ちょっと待ちなさい」
「何だよ。時間が無いんだ。離せ」
憮然とした表情で振り返る高耶に、直江が微笑む。
「心配しなくても行くなとは言いませんよ。ただ・・・、女性もいるんでしょう?それなら香水くらいつけて行った方がいい。エチケットですよ」
「いらねえって。ゼミの仲間なんだから、そんな気なんて使わなくていいだろ」
第一面倒だ、と高耶は言ったのに、ちょっと待っていてと言い置くと直江はまだ履いていた靴を脱ぎ、奥へと向かってしまった。
それを見送りながら、高耶は自分でも気づかないうちに眉間に皺を寄せた。
(行くなって言わないのか・・・)
絶対に行くなと言われると思っていただけに肩透かしを食らった気分だった。
大学のゼミ仲間でのコンパだから、後ろめたい事なんて何も無い。無いのだが、いつもコンパと聞くとごねる直江を宥めるのに一苦労するのだ。
だから、帰る時を見計らって入れ違いに慌しく出掛けようと思っていたのだが、ごねられるどころかすんなりと許されるとそれはそれで何だか腹が立つ。
何故かムカムカしながら香水らしきビンを手に戻ってきた男を睨みつけると、「時間ないって言ってるのに」と高耶は文句を言った。
「すぐ済みますよ」
そう言った直江が手を出して近づいてくる。
手首に付けるのだろうと手を差し出した高耶の腕を、直江はぐいと掴み引き寄せた。
男の思わぬ行動にバランスを崩し倒れこみそうになる体を直江はしっかり抱きとめると、徐にTシャツの裾を捲り上げたのに高耶は驚いた。
「な・・・っ」
やっぱり行かせない気なのか。
この男は高耶が口で言っても聞かない時は、体に言う事を聞かせようとするから性質が悪い。
暴れようとする高耶の体を、「何もしないから大人しくしていなさい」と言って抑えた直江は、Tシャツの裾を捲った手とは反対の手に持っていたビンのキャップを口に咥えて開け、かしゅと高耶の体に香水を降りかけた。冷たい感触と男からいつも香る匂いとは少し違う、強く香るトップノートに高耶の体が微かに震える。
そこは高耶のちょうど心臓の上辺り。
「な、んで・・・」
こんなところに付けるなんて高耶は知らない。
捲り上げていたTシャツを下ろし、ビンのキャップを閉めた直江は、不思議そうに見上げてくる高耶に笑みを浮かべた。
「香水は体温の高いところに付けるのが効果的なんです。手首や首筋もいいけれど、一番いいのはココ」
高耶の心臓の辺りを男が手で押さえる。
「ココならあなたの心臓の鼓動に合わせて香りを届けてくれますよ」
時間がないのでしょう?いってらっしゃい。
そう言って背中を押すと、直江は最後まで笑顔で高耶を送り出した。

(何が『いってらっしゃい』だ)
ぐいとビールの入ったコップを呷る。その動作にも、ふわりと男に似た香りが漂って高耶は顔を顰めた。
家を出た時から、この香りが気になって仕方が無い。
動くたびに、Tシャツの隙間から直江に似た香りが漂うのだ。
似てはいても違うと思うのは、つけているのが直江ではないからだろう。男の体臭と交ざり合った香りをいつも嗅いでいるから、同じ香水でも違うと思ってしまう。
もしかすると、これが男の策略だったのかもしれない。
いつでも香る香水の匂いに、その度に直江を思い出すように。焦れた高耶が早く帰ってくるように。
反対もせずに笑顔で送り出した理由が、この香水にあるのだとしたら。
「・・・あのヤロウ・・・」
胡坐をかき、ビールの入ったコップ片手に空を睨んでぼそりと呟いた高耶に、隣に座っていた同じゼミの友人が「何か言ったか?」と顔を寄せてきた。
それに、慌てて何でもないと答えると高耶はコップの中身を飲み干した。
「そういや、今日は珍しく香水なんてつけてるんだな」
「・・・」
空になったコップにビールを注がれながら言われた言葉に、高耶はぴたりと動きを止めた。
「あ!それ私も気づいた。珍しいよね、仰木くんが香水なんて」
向かい側に座っている女の子まで身を乗り出し言い出して、高耶は内心焦る。
「凄くいい香りよね。それ、何ていう香水?ブランドものだったりする?」
女性というものは、高級な香りに敏感だ。
直江の付けるものだからきっと高いのだろうが、高耶は男が付けてくれた香水の名前もブランド名も知らなかった。
詮索してくる女の子に、高耶は苦笑を返す。
「ごめん。知らないんだ。ちょっと、な・・・」
男に付けられたから分からないなんて本当の事を言えない高耶は曖昧に誤魔化した。

男の策略に乗せられてたまるかと、いつにないピッチで酒を飲んでいたからか、コンパの中盤で既に高耶はかなり酔っ払っていた。
酒と、体温が上がったからか立ち上る香水の香りに酔ってくらくらする。
(これはヤバイ、かも・・・)
微かに残った理性がそう囁くのを聞いて、少し後ろにある壁際に移動すると無意識にジーンズの後ろポケットに入れてある携帯を探る。
「おーい、仰木ー?大丈夫かー?」
「ちょっと大丈夫?飲みすぎたんじゃない?」
心配そうな友人たちの声を頭の隅に聞きながら、「大丈夫」と返すと携帯を開き1番に登録してある短縮番号を押す。
何度目かのコールの後聞こえてきた男の声に安堵したのか、今いる場所だけ告げると、高耶は壁に凭れて意識を手放した。


「すみません、ご迷惑をおかけして」
ゆらゆらと揺らぐ意識の中、直江の声が聞こえた気がして高耶は重たく感じる瞼を微かに開けた。
(な・・・おえ・・・?)
霞む視界に、座敷の上がり口に立ち心配そうに眉を顰めて見つめてくる直江が映る。
普段、家で仕事中にしか見る事のないラフな格好に眼鏡姿。
どうしてそんな格好でいるのかは分からないが、眼鏡を掛けているこの姿も好きだ。
(直江だ・・・)
香水の香りを嗅ぎながらずっと考えていた男の顔を見られて、高耶はほぅと溜息を零すと、微かに笑みを浮かべて再び意識を揺らぐ世界へと沈めた。

(まったく・・・)
人の気も知らないで幸せそうな顔をして再び眠ってしまった高耶に溜息が出る。
コンパが終わるにはまだ早い時間に電話が掛かってきたときは、香水の効果がもう出たのかと笑みさえ浮かんだのだが、聞こえてきた高耶の声にその笑みはすぐに立ち消えた。
掠れた声で場所だけ言って切れた電話。
何かあったのではないか。
すぐに携帯に掛けなおしてもコールが聞こえてくるばかりで出ない高耶に直江は焦った。
どれだけ焦ったのか、直江の姿をひと目見れば分かっただろうが、酔っ払って暢気に寝ている高耶は気づかなかったようだ。
家で仕事中に電話を受けて、すぐに携帯と財布、キーだけ握って慌てて出てきたから、Yシャツにスラックスという軽装でジャケットも羽織っていない。おまけに仕事中だけ掛ける眼鏡までそのままだ。
第二ボタンまで外したYシャツから漂う大人の香りと、眼鏡というストイックなアイテムを装備したアンバランスな危うさを漂わせる男に、先程から男女問わず熱い視線が送られている。
(まずいな・・・)
高耶の友人達の間であまり噂になると、嫉妬か羞恥かは分からないが高耶が怒ってしまう。
とりあえず高耶を連れて急いで帰らなければ。
そう思った直江は、「失礼」と靴を脱ぎ座敷に上がると、周りの注目を浴びながらテーブルを回り眠る高耶に近づいた。
「あれ?」
高耶の側に座っていた友人らしき男が、すれ違う直江を見上げながら声を上げた。
「仰木と同じ香水・・・?」
その声に、向かいの女性も「うそ、ホントに?」と身を乗り出してくる。
「ホントだ。同じ・・・です、よね・・・?」
鼻のいい事だと内心苦笑しながら聞いてきた友人達に笑みを返す。
「えぇ。同じですよ。この香水は私のですから」
そう言った直江に、女性が驚きの声を上げた。
「そうだったんですか?仰木くん、香水の事聞いたとき誤魔化したから、てっきり年上の彼女から付けられたんだとばっかり・・・」
女性のその言葉に直江は内心苦笑した。女性というものは、観察眼が鋭くて時々困る。
確かに付けたのは年上の恋人だ。
―――女性ではないが。
「じゃあ、借りたんですね。・・・でも、この香水、凄く仰木くんに似合ってる」
本当にこの女性は高耶をよく見ているなと思いながら、直江は素直に頷いた。
直江が愛用している香水。
エゴイストプラチナム。
この香りは、爽やかさに穏やかさ、それにキリッとした中にも優しさがあって。
彼に似ていると直江も思う。
大人な雰囲気があるから、まだ高耶の若さでは少し荷が重いかもしれないが、彼の高貴な部分がそれをカバーする。
「でもホント珍しい。仰木くんが香水借りるなんて」
そう言った彼女に、少しだけ本当の事を教えてやる。高耶にこの香水が似合うと知っている彼女だけに聞こえるよう、声を潜める。
「高耶さんが借りたんじゃありませんよ」
「え?」
不思議そうに見上げてくる女性に、不敵な笑みを向ける。
「私が牽制の為に付けたんです」
ぽかんと見つめてくる彼女を他所に、財布から札を何枚か抜き取り「お金、ここに置いておきますね」とテーブルに置くと、直江は高耶を大事そうに抱き上げた。
「これじゃ多いですよ!」
友人の一人が、ここにいる全員の支払いが出来そうな札の数に慌てる。
「多い分は高耶さんの奢りですよ。それでは、失礼しますね」
軽々と高耶を抱き上げ座敷を出る直江を、うっとりと見つめる女性たちと羨望の眼差しを向ける男たち。
どちらの視線にも関心を向ける事無く、男は高耶を連れて帰っていってしまった。
「何か・・・。仰木ってすげーな・・・」
みなが呆気に取られている中でぼそりと言った友人の言葉に、その場にいたみんなが頷き賛同した。

その後の大学内で、超格好いい大人の男を呼び出して迎えに来させた上に全員分の飲み代を奢らせたという噂が実しやかに流れていたのを高耶は知らない。





知らない間に噂の的。ただでさえ目立つ人なのに、さらに遠巻きに眺められるハメにw



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