青いスケッチブック その人がいつも手にしているのは、青いスケッチブック。 駅構内の壁に凭れ、青いスケッチブックを片手に行き交う人を眺めている。 何かを描いているのだろう。その人の真剣な眼差しと、鉛筆を持った大きなその手が鋭く、時に大きく動く様は、まるでそこだけ別の世界にあるかのようだった。 高耶はいつもその人を、バイトの帰りという少し遅い時間帯に見かけていた。 その人物を最初に見かけたのは、確か春頃だったと高耶は記憶している。 バイトの帰り、電車を降りて改札を出た直後だった。 ふと視線を感じてそちらへ目を向けた高耶は、青いスケッチブック片手に壁に凭れていた人物とバッチリ視線が合ってしまい、少しうろたえた。 そんな自分を恥じたのではないが、つい、いつもの習性でその人物をギッと睨みつけてしまい、すぐに後悔した。視線が合っただけなのに何をやっているんだと。 睨まれた相手はさぞ気を悪くしただろうと思ったが、やけに男前なその人物は少し驚いた表情を浮かべた後、ふわりと笑った。 『―――!』 その時の衝撃といったら無かった。 暖かそうなその柔らかい微笑みを見てしまった高耶は、慌ててその人から視線を逸らし、何故か高鳴る心臓と熱くなる頬に戸惑いながら、足早にその場を後にした。 それからだ。 バイトの帰り、高耶はその人物をいつも無意識に探している。 電車を降りて改札口が近付くにつれ、その人物の姿が自然と視界に入ってくる。 (今日も居る・・・) バイトは毎日入っているというわけではいないが、それ程日を空けず入っている方だから殆ど毎日と言っていい。 そんな高耶が、そのバイト帰りに駅構内で彼を見かける確立はほぼ100%。 毎日来てるのかなと、改札を抜けても歩みは止める事無く、彼にチラと視線を向けながら考える。 いつもと同じく、鉛筆と青いスケッチブックを手にし、行き交う人々に視線を向けるその表情はとても真剣だ。 冷たい印象すら抱かせるその表情が、笑った途端、暖かい印象を抱かせることを高耶は知っている。 あの笑みをまた見たい。そう思っている自分がいる。 (いやいやいやいや・・・) 小さく首を振る。 彼が綺麗な顔をしているからだ。モデルかと見紛うくらいの背丈と、大人の男を感じさせる端正な顔立ち。 人通りが多い駅なんていう場所でそんな彼が立っていれば、声を掛けたいと思う女性は多いのだろう。今も、彼に視線を向けているのは、高耶ばかりではない。 しかし。 スケッチブックに向けられている彼のその表情は、真剣すぎてどちらかというと怖いくらいだ。 そのお陰か、彼に声を掛けようという女性はいないらしく、彼が誰かと一緒にいる姿を高耶が見た事は無い。 その事にどこか安堵している自分がいる。 (いや、だから) 彼に向けていた視線を戻し、小さく溜息を吐く。 最近の高耶は、彼に対する感情を持て余し気味だ。彼が気になって仕方が無いのだ。 何を描いているのだろうとか、何をしている人なのだろうとか。 少し落とした真剣な眼差しが青いスケッチブックに向けられるのを見るたび、自分にもその瞳を、少しでいいから向けて欲しいと思っている。 そして、出来る事なら笑顔を。 (・・・何考えてるんだ) 相手は男だ。高耶よりも背丈のある、どこからどう見ても大人の男。 女性ならこの感情に簡単に名前が付けられる。けれど、男相手となると・・・。 小さく首を振って、いつの間にか俯いていた顔を上げる。 もう、彼の事は気にしないようにしよう。見ないようにしよう。 自分の感情に戸惑っていた高耶は、そう思いながらその場を後にした。 いや、するはずだった。 「困ります」 「いいじゃないですか。少しだけ」 「本当に、困るんです」 揉めているような男女の声。 聞こえてきた男性の困惑したような声と、女性の媚びるようなその声に何となしに振り返った高耶は、その視線の先に彼の困惑した表情を見つけた途端、くっきりと眉間に皺を寄せていた。 「わりぃ!待たせた」 気が付けば、高耶はその顔に笑みすら浮かべて彼へとそう声を掛けていた。 高耶に声を掛けられた彼が驚いた表情を浮かべる。それはそうだろう。見知らぬ高耶に突然、馴れ馴れしく声を掛けられたのだから。 しかし、彼が驚いた表情を浮かべたのは一瞬だった。 次の瞬間、彼はあの柔らかな笑みを浮かべていた。 助かったとホッとしてくれたようなその笑みに、高耶の行動は余計な世話ではないのだと安堵した高耶は、馴れ馴れしく彼の腕を引いていた派手な格好の女性を睨みつけた。 「え・・・、あの・・・」 高耶の眼光鋭いその瞳を見た女性が途端に怯む。 「・・・すみません、連れが来たのでこれで。・・・行きましょうか」 腕に纏わり付いていた女性の手をやんわりと剥がした彼が、まだ女性を睨みつけている高耶の腕を引き、笑みを向けてくる。 彼に促され、その場を離れる。 「・・・助かりました。ありがとうございます」 女性から少し離れた所で、彼に小さな声でそう礼を言われた。 「いや、大したことはしてねぇよ」 気にすんなと、こちらも小さな声でそう言って笑うと、彼もふわりと柔らかな笑顔を浮かべてくれた。 |