愛しいあなた 最低限灯りの落とされた社内。辺りに響くのは、キーボードが鳴る音だけ。 机の上に置かれたライトに照らされながらPCにデータを打ち込んでいた直江は、目の前のディスプレイが僅かに霞むのを感じ、その手をふと止めた。 小さく溜息を吐きながら椅子の背に凭れかかり、掛けていた眼鏡を取る。 (疲れた・・・) 目頭を指先で軽く揉みながら、左腕に嵌めた時計にチラと視線を向ける。 その時初めて、直江は自分が夕飯をまだ食べていない事に気付いた。 キリがないしそろそろ帰るかと、データを保存しPCの電源を落とす。 そうして椅子から立ち上がる直江は、今頃どうしているだろうかと愛しい人へと想いを馳せていた。 世間は黄金週間一色だが、不動産業に休みはない。 直江が勤める橘不動産とてそれは変わらず、休日返上で働いてくれていた部下を早めに帰し、一人残ってデータ入力をしていた直江は今日、一つ歳を取っていた。 誕生日を終日会社で過ごした事を淋しいと感じる程子供ではないが、愛しい人に祝ってもらえないのはさすがに淋しい。 会社の地下にある駐車場。そこで愛車に乗り込む直江が考えるのは、やはり高耶の事だ。 わざわざ松本から来てくれようとしていた高耶を、誕生日も仕事で忙しくて会えそうにないからと、直江は会う約束を取り付けなかった。 今から真っ直ぐ家に帰ったとしても、すぐに日付が変わってしまうだろうから、やはり約束しなくて正解だったなと思う。 高耶は暦通りの休みを与えられる学生だか、学生は学生なりにいろいろと忙しい。 本業である勉強だってあるし、友人付き合いだってある。 誕生日だからと言っても、仕事がいつ終わるか分からない男の為に、遠い地に居る恋人をわざわざ呼び寄せるのは心苦しかった。 だから、電話越しに会いに行かなくていいのかと問う高耶の声に、直江は少しの淋しさを感じていながらも、大丈夫ですから気にしないでと答えたのだ。 駐車場から車を出し、自宅への道を辿り始めた直江の口から小さな溜息が零れる。 その時は、これほど淋しさを感じるなんて思いもしなかった。 誕生日を誰かに祝って欲しいなんて子供のようだとは思うが、高耶だからこそ祝って欲しいのだとも思う。 高耶が、直江の事だけを考えてくれる。生まれてきた事を喜んでくれる。 直江にとって、これほど喜びを感じられることは無い。 車窓の外を流れる灯り。それを視界の端に捉えながら、再度溜息を吐く。 高耶に来なくていいと言ったのは自分だ。そして、もうすぐその誕生日は過ぎてしまうのだから、いつまでもこんな事を考えていても仕方が無いだろう。 直江は、早く帰って眠ってしまおうと車を急がせた。 日付変更まで後少し。 自宅へと辿り着き玄関のドアを開けると、そこに見慣れた靴があって直江は目を見張った。中も灯りが点いている。 「ただいま帰りました」 来なくていいと言ったのに、わざわざ来てくれたのだろうか。直江の顔に自然と笑みが浮かぶ。 「・・・高耶さん?」 だが、靴を脱ぎながらリビングへと続く廊下に声を掛けても返事がない。直江は小さく首を傾げながらリビングへと向かった。 リビングに入ると、テーブルにラップされた一人分の食事があって、それを見た直江は小さく笑みを浮かべた。 やはり高耶が来てくれているのだ。だが、姿が見えない。 (どこに・・・) 寝室だろうかと足を向ける。 少しだけ開いていたドア。取っ手に手を掛け、それを開ける。 すると、真っ暗な寝室のベッドの上。しなやかなその身体を小さく丸め、高耶がスヤスヤと眠っていた。それを見た直江の顔が綻ぶ。 起こさないようにそっと近付き、ベッドの端に腰掛ける。途端にベッドがギシと僅かに鳴り、起こさなかっただろうかと焦ったが、高耶は小さく身じろいだだけで起きる様子は無かった。 その姿を見つめる直江の瞳が、愛しさから柔らかく細められる。 いつ来てくれたのだろうか。 高耶が来てくれると分かっていたら、もっと早く帰ってきたというのに。 そこまで考えて小さく苦笑する。 高耶の事だ。直江に来なくていいと言われていたから、来るか来ないかかなり迷ったに違いない。 迷った末、来る事にしたものの、仕事で忙しいと言った直江の事を気遣って、連絡もせずに来てくれたのだろう。 遠い地から、わざわざこうして来てくれた高耶が愛しい。 (ありがとうございます) 心の中でそう礼を告げる。 出来れば日付が変わる前に「おめでとう」という言葉が聞きたかったが、こんなに心地よさ気に眠っている高耶を見ると、起こすのは可哀相だ。 直江は少し身体を屈め、いろいろな意味を込めたキスを眠る高耶の頬にそっと落とした。 |