2012年直江BD 匿名希望 公共の電波であるラジオに声を乗せる瞬間は、何度やっても緊張する。 「皆さんこんばんは、橘義明です。さて、今夜の一曲目は・・・」 都心にあるラジオ局の一角。透明なガラスで仕切られたブースの中で、一人マイクに向かう直江は、オープニング曲に続けて滑らかに声を響かせる。 俳優・橘義明として有名になりつつある直江であるが、どれだけ忙しくとも、深夜に放送されるこのラジオ番組だけは欠かさずに収録している。 直江がまだ駆け出しだった頃、このラジオ番組のプロデューサーが拾ってくれたからだ。 「いつもたくさんのメールやお便りをありがとうございます。私事ですが、本日は私の誕生日という事で・・・」 そう言いながらマイクの向こう側へと視線を向ける直江の顔に、ふと小さく苦笑が浮かぶ。 いつもなら、番組へ届いた手紙や葉書きが置かれているはずのテーブルの上には、綺麗に包装されたプレゼントが山となって置かれていた。 「プレゼントもたくさん届いています。贈って下さった皆さん、本当にありがとうございます」 所属する事務所に一旦預けられた後、直江の元へとやって来るのだろうプレゼントの山は、ここにある分で終わりではない。 これの何倍ものプレゼントが事務所にも届いているのだろうと思うと少々頭が痛いが、ファンからの贈り物だ。大切に扱わなければ、橘義明のファン第一号だと豪語する彼に叱られてしまうだろう。 「それではここで、お葉書きを一通ご紹介したいと思います」 BGMが切り替わったところで、直江は傍らに置いておいた一通の葉書きを手に取る。 『初めて葉書きを出します。まずは、誕生日おめでとうございます』 「ありがとうございます」 何の変哲も無い葉書きに書かれた見慣れた文字。それを声に出して読む直江の鳶色の瞳が、ふと柔らかく細められる。 葉書きの主へと感謝の言葉を返した直江は、続く文章をゆっくりと読み上げた。 『橘さんがラジオ番組を始めた頃から、ずっと応援しています。淋しい時や辛い時、ラジオから聞こえて来る橘さんの声に何度励まされたか分かりません。俳優としての橘さんも好きですが、ラジオも変わらず頑張って下さい』 最後まで読み終えた直江の視線が僅かに泳ぐ。どこかに記載されているのではと思われたラジオネームが見当たらなかったからだ。 「・・・ラジオネームが無いようですが、匿名希望さんでしょうか」 彼の事だ。ラジオネームを考えて考え抜いた末に、良いラジオネームが思い浮かばず、そのまま葉書きを出してしまったのだろう。 「きっと恥ずかしがり屋さんなんですね」 彼らしいなと、そう続ける直江の口元が柔らかく綻ぶ。 ラジオネームを書かなかったのはまだ良いが、住所や本名を書いていないのは少々頂けない。 この番組ではメールや葉書きを送る場合は、住所や本名を書く事を必須としている。 抽選で当たるプレゼントを送る際に必要だという事もあるが、パーソナリティである直江が、『橘義明』として名が売れ始めているからだ。 番組で読み上げるメールや葉書きを選考する際に直江が偶然見付けなければ、この葉書きは不備があるとして、直江の目に届く事無く埋もれてしまっていたかもしれない。 その事を重々知っていただろう彼が名前を書かなかったのは、読まれなくても構わないという事なのか、それとも、直江が見付けると確信していたからなのか。 (恐らく前者だな・・・) 彼らしいと言えば彼らしいが、せっかく彼が書いてくれた葉書きを読まずにいたと後日知ったなら、一生涯後悔する所だった。 その葉書きに書かれていた内容が、滅多に聞けない彼の本音とあれば尚更だ。 葉書きに書かれている文字を指先でなぞる直江の鳶色の瞳が、ふと柔らかく眇められる。 「・・・このラジオを始めた頃は本当に駆け出しで、聞いてくれる人が居るんだろうかと不安でした」 名前が全く売れていない頃の話だ。 公共の電波であるラジオに声を乗せるチャンスを与えて貰ったものの、成功させる自信は全く無く、続けていけるかどうか不安で堪らなかった。 「でも、一回目の放送直後だったでしょうか。リスナーの方から一通のメールを頂いたんです」 ―――アンタの声、聞いてて気持ちいいな。これからも聞く。 この葉書きと同じく、本名どころかラジオネームも無いぶっきらぼうなメールだったが、その一通のメールに直江がどれだけ救われたか分からない。 「当時は滑舌も悪かったでしょうし、聞き苦しい点もいっぱいあったと思うんです」 昔の自分を思い出す直江の口元に、ふと小さく苦笑が浮かぶ。 「でも、あの時『これからも聞く』と言ってくれた人が居たから、私はこれまで頑張って来れたんじゃないかなと思っています」 彼とは色んな話をして来たが、今回のこれは初めて聞かせる話だ。 「今もきっと聞いてくれているだろうあの人に、感謝の想いを込めて一曲お送りします。曲名は・・・」 きっとこのラジオを聞いてくれているはず。 そう確信する直江は、彼の為に選んだ曲のタイトルを綴った。 ラジオ終了後、駐車場に置いておいた車に直江が乗り込んだ途端。 「・・・誰が恥ずかしがり屋だ」 助手席のシートに深く身を沈め、眠っていると思われた高耶から唸るような声でそんな事を告げられた。 終わるまで眠ると言っていた高耶だが、やはりラジオを聞いてくれていたらしい。 小さく音を立ててキーを回し、車のエンジンを掛ける直江の顔に、ふと柔らかな笑みが浮かぶ。 「私は本当の事を言っただけですよ」 そう言いながら高耶の顔に乗せられている野球帽を取った直江は、そこから現れた高耶の唇にそっと口付けを落とす。 「・・・葉書き、ありがとうございました」 鳶色の瞳を柔らかく細める直江が囁くような小さな声でそう告げると、それを聞いた高耶の頬が僅かに赤く染まった。 「別に」 ぶっきらぼうにそう言いながら顔を逸らした高耶が、直江の手から奪い返した野球帽を再び顔の上に乗せる。 「誕生日だからな。特別だ」 顔は隠れてしまったが、耳までは隠せていない。 野球帽の端から覗く高耶の赤く染まった耳が愛おしい。 「ありがとうございます」 柔らかな笑みを浮かべながらそう告げる直江は、二人きりになれる自宅へと一刻も早く戻るべく、急いで車を発進させた。 |