Nursing 梅雨明け宣言がなされた途端、いきなり酷暑が訪れた。 エアコンの効いた車内は過ごし易いが、流れる車窓の向こう側は、良い天気も相まって灼熱の様相を呈している。 つい数日前まで肌寒さを感じていたのに、突如としてこの暑さだ。体調を崩してもおかしくはないなと、黒塗りの車の後部座席に座る直江は、隣に座る高耶をちらと盗み見る。 その高耶は直江の視線に気付いているのかいないのか、凛とした雰囲気を崩す事無く、静かに目を閉じている。 グループ会社全てに挨拶を済ませたばかりの高耶だが、来月からグループ会社の一つを任される事になっている。 その前に一日だけでも休めるようスケジュールを調整しようとしたのだが、余計な事はするなと言われてしまった。 直江は高耶が一度言い出したら聞かない事を知っている。これ以上言っても聞かないだろうと判断し、一旦は素直に引き下がって見せた直江だが、直江は高耶の事となると自分でもそう簡単には引き下がれない男だ。 高耶には分からないようスケジュール調整する事など、秘書である直江には簡単な事だった。 この後に控えている高耶の誕生日を内々に祝うパーティは、現社長である幻庵が主催だ。どうしても外せなかったが、明日以降の会食や視察などは既に先延ばしにしてある。 熱が出て来ただろうか。 高耶の顔色が少し悪い事に気付いた直江の手が高耶へと伸びそうになるが、今の直江は高耶に気軽に触れて良いような存在ではない。 高耶が次期社長として大々的にお披露目されてから約一ヶ月。高耶の傍を片時も離れなかった直江には、グループ内での高耶の立ち位置が嫌と言う程に理解出来ている。 当然と言えば当然だが、グループ内は高耶を歓迎する雰囲気ではない。 逆風の中に立たされている高耶を献身的にサポートしているが、高耶は直江の事も信用してはいないのだろう。高耶の秘書だというのに、高耶から頼られる事は殆どと言って良い程に無かった。 仕方の無い事ではあるが、このままでは高耶の身が持たない。 早急に何かしらの対策を講じなければ―――。 そんな事を考えていると、いつの間にかパーティ会場である幻庵宅へと到着していた。 幻庵から車ごと譲り受けた運転手は、かなり無口だが腕は良いし気も利く。 高耶の体調が優れない事に運転手も気付いていたのだろう。揺れを殆ど感じさせずに、幻庵宅の玄関前まで送り届けてくれた。 寡黙な運転手に感謝の言葉を掛けている高耶をエスコートし、直江は高耶と共に幻庵宅内へと足を踏み入れる。 内々のパーティだと言っても、グループ企業の親族がほぼ全員集まるのだと聞いている。 高耶を可愛がっている様子の幻庵はともかく、その他は腹に一物も二物も抱えているような人物ばかりだ。 高耶は今回のパーティの主賓だが、体調の事もある。少し早めに失礼させて貰った方が良いだろう。 「高耶」 満面の笑みで出迎えてくれた幻庵に頭を下げる直江は、そんな事を思いながら高耶を幻庵に預けた。 少し離れた場所から見守っていたが、宴もたけなわを迎える頃には、高耶の顔色がかなり悪くなっていた。 そろそろ席を辞した方が良いだろうと判断した直江は、談笑する幻庵の傍へと歩み寄る。 「幻庵様」 歓談の邪魔にならないようそっと声を掛けると、勝手知ったる仲だ。幻庵が片耳だけをこちらに傾けてくれる。 「高耶様の顔色が少し優れないご様子ですので、私たちはこれで失礼しても宜しいでしょうか」 直江のその言葉を受けた幻庵が見せたのは、心から心配しているという表情だった。 「ここは私に任せて、お前たちは帰りなさい」 思ったとおりの返事をくれた幻庵に感謝の意を込めて頭を下げ、直江はすぐさま高耶の元へと向かう。 「高耶様」 こちらも歓談中だった高耶に用があるという体で声を掛けると、少し待つようにと片手を上げた高耶が、話を切り上げたのだろう。歓談相手に笑みと共に軽く会釈したあと、直江の元へと歩み寄って来る。 「何だ」 「幻庵様より伝言です。疲れているようだからもう帰りなさい、と」 直江の言葉が本当かどうか確かめる為だろう。高耶の漆黒の瞳がパーティの中にある幻庵の姿を探す。 先に幻庵に話を付けておいて正解だった。高耶の視線に気付いた幻庵が、大丈夫だからというように頷いて見せる。 それを見てようやく直江の言葉を信じてくれたのだろう。 「帰るぞ」 幻庵に丁寧に頭を下げていた高耶が、直江には目もくれずパーティ会場を後にする。 明日からの高耶のスケジュールは調整済みだ。どうしても外せなかったパーティも無事に終わり、ようやく高耶を休ませる事が出来る。 内心安堵しながら高耶に付いて会場を後にした直江は、車を待たせてある玄関までの短い間、高耶の毅然とした後姿が僅かに揺れるのを目にし、咄嗟に高耶の身体に手を伸ばしていた。 「高耶様・・・っ」 高耶が倒れ込む前にしっかりと抱き留め、ホッと安堵する間もなく、腕の中にある高耶の身体が熱い事に気付いた直江の眉間に深い皺が刻まれる。 「離せ」 倒れそうになってもなお、高耶は直江を頼ろうとはしなかった。拒絶の言葉が向けられたが、今はそれに従っているいる場合ではない。 「今だけ我慢して下さい」 直江から離れようとする身体を許さず、そう言い置いた直江は高耶の身体を抱きかかえたまま車へと急ぐ。 「病院へ」 車に乗り込んですぐ。高耶のネクタイを緩める直江は、寡黙な運転手へ病院へ向かうよう指示を出したが、高耶は「だめだ」と首を振った。 「ですが、」 「病院はいやだ」 弱っているからだろうか。いつもの毅然とした高耶はなりを潜め、今にも泣き出しそうな顔でそう言われた直江は進路変更を余儀なくされる。 だが、その前に約束を一つさせて貰わなければ。 「私の看護を受けて下さるのなら」 素人目にも寝ておけば治るなどという状態ではない。看護が必要だと訴えると、病院へ行くのは余程嫌らしい。 「・・・わかった」 渋々ながらも、直江の看護を了承してくれた。 「ホテルへ向かって下さい」 そんな高耶に小さく苦笑しながら、直江は高耶が滞在しているホテルへ向かうよう運転手へと指示をする。 ずっと気を張っていたのだろう。車体が滑らかに動き始めると、大きく溜息を吐く高耶がその身をシートに深く沈ませる。 倒れてしまうほどに疲れている高耶の黒髪を撫でて甘やかしたいが、高耶の信頼を取り戻せていない直江にはそれが許されていない。 せっかくの誕生日に体調を崩させてしまい、秘書としては申し訳ないと思うが、直江個人としては高耶の看護が出来る事が不謹慎な事だが嬉しかった。 |