恋に堕ちた瞬間 それは、恋に堕ちた瞬間―――。 生命が芽吹き、生き生きと育つ季節だからだろうか。空から降り注ぐ麗らかな春の日差しはキラキラと輝いていて、見るものに眩しさを感じさせる。 アカデミーから続く廊下を早足で歩くイルカの狭い視界の端。窓から見える中庭では、満開だった花弁を早くも落とした桜が、その艶やかな葉を爽やかな風に揺らめかせていた。 春はイルカの大好きな季節だ。 そして、最も忙しい時期でもある。 まだまだ未熟ながらも、アカデミーで教鞭を執るイルカだ。新学期の始まりは、ただでさえ何かと準備や用事が発生する。 通常通り受付業務にも入り、火影の雑務も手伝っているイルカであるからして、忙しさに拍車が掛かるのは仕方の無い事だろう。 (自業自得って言えばそれまでだけどな・・・) 頼まれれば断れない性格も災いしている。ふと小さく苦笑するイルカの両手と視界。両方を塞ぐ程にうず高く積み上げられた資料は、執務室の手前にある資料室に持って行って欲しいと頼まれたものだ。 少々重いそれを崩れたりしないよう慎重に抱え直し、火影が在する執務室へと続いている廊下の角を曲がる。途端。 「・・・重そうですね、イルカ先生。手伝いましょうか?」 「ぅわ・・・っ!」 前方からそっと掛けられたその声に、角を曲がった先に誰かが居る気配なんて微塵も感じていなかったイルカは、盛大に驚いてしまった。 イルカの両手を塞いでいた資料の束。見上げる程に積み上げられたその上方が崩れ落ちそうになって慌てたが、その前に声の主が半分程を持ってくれたのだろう。イルカの手に感じていた重みが軽減され、塞がれていた視界がふっと開放される。 イルカの目に最初に映ったのは、柔らかそうな銀色の髪。 「すみません。ビックリさせちゃいましたね」 その銀髪を揺らして小首を傾げ、唯一晒している深蒼の瞳を細めて苦笑して見せたのは、この春に卒業した教え子を介して知り合ったばかりの上忍師であるカカシだった。 その姿を見止めたイルカの瞳が僅かに見開かれる。 (カカシ先生・・・っ) 上忍であるカカシに謝罪されてしまったイルカは慌てた。 里内とはいえ、気配を消しているのは忍として当然だ。まして、木の葉一の忍と謳われる程のカカシともなると、中忍のイルカにその気配を感じ取るなんて出来るはずも無い。 だがカカシは、資料で視界が塞がれていたイルカを吃驚させないようにと、そっと声を掛けてくれていたのだ。それなのに、忍らしくもなく盛大に驚いてしまったイルカの方が悪い。 「いえっ、俺の方こそ驚いてしまってすみません・・・っ」 頭の天辺で結った黒髪を揺らしながらそう謝罪すると、それを聞いたカカシの苦笑が深くなる。 「気配を消してたし、側で急に声を掛けちゃったから。イルカ先生がビックリするのは当然ですよ」 カカシのその言葉にホッとする。 元暗部で、里一番と謳われる上忍。さらには、次期火影候補―――。 その顔の殆どを額当てと口布で覆い隠し、表情を窺う事が難しい上に、そんな大仰な肩書きが付いているカカシの事を、イルカは知り合った当初、取っ付き難い印象を持っていた。 (見掛けに寄らない人って、こういう人の事を言うんだよな・・・) だが、実際に話してみてすぐ、イルカのその印象はガラリと変わった。 カカシは、上忍にありがちな『階級が下の者に対して威圧感を漂わせる』という事を全くしないのだ。 中忍であるイルカにも気さくに声を掛けてくれ、それどころか、先ほどのように簡単に謝罪までして見せる。 飄々とした態度の端々に窺える優しさ。 厳しさももちろん持ち合わせているのだろうが、あのナルトが懐いている様を見ても、カカシはその心根が優しいのだろうとイルカは思う。 「それで、コレは執務室まで持っていけばいいのかな?」 資料を手に持つカカシがそう言いながら、先に立って歩き出す。 「あっ、いえ。その手前の資料室までなんです。すみません、手伝って貰ってしまって・・・」 上忍であるカカシに手伝って貰うなんてと恐縮するイルカに対し、前を歩くカカシがふと笑う気配がする。 「ううん。資料室はすぐソコだし、オレもこの先にちょっと用事がありますしね」 イルカに気を使わせないようにだろう。カカシから軽い口調で告げられたその言葉を聞くイルカから小さな笑みが零れ落ちる。 (やっぱり優しい) 用事があるなんてきっと嘘だ。 この先にあるのは、イルカが向かおうとしていた資料室と火影在する執務室、それから、大きな会議室があるだけだ。 カカシの少々薄汚れた忍服からも窺える。 執務室の方向からやって来たカカシは、つい先ほど任務から帰還したばかりなのだろう。そして、それは火影に直接報告するような任務―――Sランク。 疲れているだろうに、手伝ってくれるカカシの優しさに嬉しくなる。 程なくして辿り着いた資料室。 「ありがとうございました。助かりました」 「いえいえ、どういたしまして」 開け放った扉の前でそう言いながら、カカシが持ってくれていた資料を受け取る。 そうして再び塞がれたイルカの視界。その端からカカシの顔がひょいと覗いたと思ったら、「それじゃ、またね。イルカ先生」と柔らかな笑みと共に言われた。 やはり用事なんて無かったのだろう。そのまま元来た方向へと戻るカカシの後姿を見送るイルカの頬が徐々に赤くなっていく。 何の変哲も無い挨拶だった。 それなのに、狭まっていた視界いっぱいでカカシの深蒼の瞳が細められる様を見せられ、何故かイルカの心臓が高鳴ったのだ。 (なに・・・) 一向に治まる様子を見せない胸の高鳴りに戸惑う。 ここ数年、感じることの無かった感覚だ。今ここで沸き起こった事に驚く。 だが。 遠ざかって行くカカシの後姿から視線を逸らせない自分に気付き、その事に否応無く気付かされる。 それは、イルカが恋に堕ちた瞬間だった―――。 |