捨てる神あれば拾う神あり 6周年記念 忍の世界では裏の裏を読むのが当たり前だ。 数ある忍里の中でも特に、優秀な人材を多く擁する事で知られている木の葉の里で、絵に描いたような騙され方をした人間は、連綿と続く里の歴史を遡っても自分くらいのものではないだろうか。 薄暗い路地裏のさらに奥。小さく丸めていた身体をゆっくりと大の字に伸ばしたイルカは、真っ暗な空から放射線状に降り注ぐ雨を見上げながら大きく溜息を吐く。 (・・・腹が減って動けねぇ・・・) 途中から降り出した雨のおかげで傷だらけな上に泥だらけにもなってしまい、見た目はかなり悲惨だが、イルカはこれでも中忍だ。 急所は避けた事もあり、怪我は大したことはないが、空腹は如何ともしがたい。 腹が減ったと主張を続ける腹の虫に何か食わせてやりたいところだが、今日貰ったばかりの給料は、つい先ほど、仕事熱心な借金取りのお兄さんたちに全て奪われてしまっている。 今日の飯、どころの話ではない。このままでは滞納している家賃を払えず、住み慣れたアパートを追い出されてしまう可能性だってある。 「・・・あー・・・」 視界が滲み始めている事に気付いたイルカは、ゆっくりと持ち上げた片腕で、泥が付くのも構わず顔を覆う。 何事にも前向きで、根性だけは人一倍だと自負していた。友人だと信じていた男から騙されていた事を知った時も、多額の借金を背負わされていると知った時だって、イルカは自棄になる事無く出来る努力を続けて来た。 それがどうだ。 住む場所を失うかもしれないと考えただけで泣けて来るとは情けない。 ここまで頑張って来たじゃないか。命さえあれば何とかなる。 そう自分に言い聞かせるものの、空腹と、有り金を全て奪われたという事実に心を折られたイルカが、その場所から動く気配は無かった。 * 心を折られはしたものの、自棄になったつもりはない。 つもりはなかったが、あのまま寝入ってしまったという事は、多少なりとも自棄になっていた部分が自分にあったのだろう。 窓から差し込む朝日に促されて目覚めてみれば、一晩雨に打たれたイルカの身体は、これまで経験した事が無い程の高熱に侵されていた。 疲れた身体がまだ眠りを欲しているのだろう。目を閉じるよう強く勧めて来るが、心地良い眠りに再び落ちるその前に、イルカには確かめなければならない事があった。 朦朧とする意識を叱咤しながら、イルカは自分を覗き込んでいる人物を見定める。 「・・・オレが誰だか分かりますか?イルカ先生」 目で認識するよりも先に、聞こえて来たその声で理解した。 (・・・カカシ、先生・・・?) イルカの記憶が確かならば、声の主は、この春に知り合ったばかりの上忍師・はたけカカシだ。 喉も痛めているらしく声には出ていなかったと思うが、イルカの唇の動きで分かったのだろう。 「そうです、オレです」 ほぅと安堵したような溜息と共に、ひんやりと冷たいものがイルカの額に置かれた。 恐らくカカシの手だ。 受付所で何度かカカシの報告書を受け取った。手甲に覆われたカカシの手は指が長く、器用そうな手だと思ったのを覚えている。 そのカカシの手が今、子供の熱を測るかのようにイルカの額に置かれている。 「何も心配しなくてイイから。今はゆっくり休んで下さい」 長い間一人暮らしをして来て、残念ながら恋人にも長らく恵まれなかったイルカは、誰かに看病される事に慣れていない。 心と身体が弱っている今は尚の事、カカシから向けられる厚意が泣けて来る程に嬉しかった。 ここはどこだとか、何故カカシが看病してくれているのかとか、尋ねなければならない事は多々あったが、今はカカシの言葉に甘えても良いだろうか。 ゆっくりと瞳を閉じ、心地良い眠りの淵に落ちて行くイルカは、額に置かれたカカシのひんやりとした手の感触を、意識を手放すその瞬間まで味わっていた。 イルカが次に目覚めた時、側で看病してくれていたはずのカカシの姿は無かった。 日は高いようだが、カーテンが閉め切られているからだろう。ベッドの上でゆっくりと起き上がったイルカは、薄暗い部屋をそっと見回す。 (・・・カカシ先生の家、なのか・・・?) 自分の家ではない事だけは確かだが、カカシに看病されたというのは、高熱に侵されたイルカが見た夢か幻だったのだろうか。 イルカのその疑問には、枕元に置かれていた一枚のメモが答えてくれた。 急ぎの任務が入ってしまった事、もうだいぶ熱は下がっているが、まだ本調子ではないだろうから無理だけは絶対にしないようにと、イルカの身体を慮る言葉が続き、最後に書かれていた一文を読んだイルカの口元がふと緩む。 「・・・人が良過ぎですよ、カカシ先生」 帰る家が無いのなら、この家の留守を預かって欲しい。 余程緊急の任務だったのか、走り書きしたかのような「へのへのもへじ」で締め括られたメモと共に置かれていたのは、この家の合鍵なのだろう。一本の鍵だった。 何がどうなってカカシの家にこうして転がり込んでいるのかは全く覚えていないが、カカシの方はイルカの事情を色々理解してくれているらしい。 それにしても、上忍が自宅の合鍵を他人に預けたなんて話は聞いた事が無い。 他国にまで名を轟かせているカカシ程の忍なら尚更だ。いくら同胞とはいえ、信用し過ぎにも程があるだろう。 自分の事は棚に上げ、今は居ないカカシの心配をしていたイルカだが、ふと上げた視線の先。 「あ・・・」 卒業して行った教え子たちと共に、困ったような笑みを浮かべるカカシが写る写真を見止めたイルカは、その顔を懐かしそうに綻ばせていた。 写真を見て思い出したのだ。 あのナルトが、カカシは胡散臭いが良い先生だと言っていた事を。 (確かにそうだな) その時は、何を矛盾した事を言っているのだと苦笑したのだが、確かにカカシは良い人らしい。 捨てる神あれば拾う神ありと言うが、あんなに泥だらけだった自分を拾ってくれたのがカカシで本当に良かっ―――。 「・・・ッ」 意識を失う前の自分の惨状を思い出した途端、イルカの動きがピタリと止まった。冷や汗を掻きながらそろそろと視線を下ろし、今の自分が見覚えの無い浴衣を着ている事を確認する。 (・・・嘘だろ・・・) あれだけ泥で汚れていたのだ。身奇麗にするには風呂に入れるしかないだろう。 意識の無い人間の身体を綺麗にするのがどれだけ大変か、アカデミーの授業の一環で救護の経験があるイルカは容易に想像が付く。 カカシは上忍だ。それも、次期火影候補と謳われている程の凄腕の忍だ。 上忍師ならば免除されるはずのランクの高い任務に、カカシだけ特例で就いている事を、受付所に勤務するイルカは知っている。 そんなカカシに多大なる迷惑を掛けたのだと改めて思い知ったイルカは、有り金を奪われたくらいで心を折られてしまった自分を思う存分罵倒する。 メモでもイルカの身を慮ってくれていたカカシの事だ。そんな事は気にするなと言ってくれるのかもしれないが、それではイルカの気が治まらない。 受けた恩義は一生を掛けてでも返さなければ。 薄暗い部屋の中で一人拳を握るイルカは、心の中でそう固く決意していた。 |