地下鉄






地下鉄は息が詰まる。
カカシは、学会終了後の飲み会で飲まされ少し酔っているその身体を、小さく溜息を吐きながら電車のドアへと預けた。
いつまでも続く暗いトンネルの中、その車窓に少しくたびれたようなスーツ姿の自分が映っているのに気付き、ふと苦笑する。
研究をこよなく愛しているカカシではあるが、その成果を発表する学会の場はあまり得意ではない。
大学の助教授というカカシの立場上、年に数本、論文を発表するという義務が課せられているから仕方なく。それに、研究の成果を纏める事も大切だしと書いているだけだ。
そうでなければ、研究発表だけに終わらず、その後、他大学との交流という名の飲み会にまで付き合わされるハメになる学会など、人付き合いを苦手とするカカシは出来れば出席したくない。
それにだ。
可能であるならば、論文を書く時間だって、読書や研究に充てていたい。
(・・・虫、だな)
つくづく、自分は本の虫なんだなとカカシは内心苦笑した。
好きな研究をしている間は、時間を忘れてしまう。幸せな時間に浸ってしまう。
人との交流を一切絶ち、本の世界だけに浸っていたいと思う自分を、以前は、人間としてどうなのかと呆れた事もあったのだが。
そんなカカシに最近、可愛らしい恋人が出来た。
読書や研究以外で幸せに浸れる時間が出来たのは、カカシにとって大変喜ばしい事だったようで、ここ最近のカカシはすこぶる調子が良い。
調子が良過ぎて、今日の学会でもカカシの論文は大反響だった程だ。
おかげで、教授陣の自慢大会と化す飲み会から普段は早々に抜け出せるのに、今回はなかなか抜け出せず、これから恋人であるイルカの家に行ったとしても、すぐに帰らなければならないだろう。
(ちょっとお茶くらいは大丈夫かな・・・)
腕の時計をチラと見て、10時を過ぎている事に気が付いたカカシは、その眉間に少しだけ皺を寄せた。
そうして、日付変更辺りまでならイルカの家で一緒に過ごしても大丈夫だろうかと、イルカとの幸せな時間を少しでも長くする為の算段を始める。
今日が金曜日なら気兼ねなく泊まってしまうのだが、今日は生憎と月曜日で。二人とも次の日に仕事がある身であるからして、カカシは、飲み会を抜け出せない状況になった時点で、楽しみにしていた『イルカの家にお泊り』は早々に諦めた。
学会が終わるまではと、イルカに逢うのを我慢していたカカシとしては、学会を頑張った自分へのご褒美に、学会が終わったらすぐにでもイルカの家へ赴き、イルカとの甘い時間をと、邪な事を考えていたのに。
はぁと小さく溜息を吐く。
(イルカ先生不足になりそうだ・・・)
これからイルカの家に行ったとしても、一緒に居られるのはせいぜい一時間くらいだろう。
今日はお茶だけで、イルカとの触れ合いは週末まで待たなければならないと思うと溜息しか出てこないが、それもこれも、イルカという恋人を手に入れて変に調子を上げてしまった自分のせいだと思えば、自業自得だと苦笑するしかない。
乗り換える駅に着き、地下鉄からいつもの電車に乗る為にホームに立ったカカシは、今から乗り換えだとイルカに連絡しておこうと、スーツの内ポケットから携帯を取り出した。
イルカには、地下鉄に乗る前にこれから行ってもいいかとメールをして、『いいですよ。お待ちしてます』と快い返事を既に貰っている。
(『これから乗り換えです。後30分程で着きます』、と・・・)
携帯を弄りながら、自分でも、随分とマメにメールを送っているなとカカシは思う。
以前は、携帯はあってもなくても不自由しなかったカカシが、今では、イルカとの連絡手段として手放せなくなっている程だ。
(ま、それだけ好きだって事だね)
送信ボタンをポチと押して画面を閉じる。
電車内での一目惚れから始まった恋だが、今ではイルカの力強い瞳だけではなく、何かとカカシを気遣ってくれる優しい所だとか、可愛らしく嫉妬する表情だとか。
イルカの好きな所を上げたらキリがない。
これからそのイルカに会えると思うと、疲れで重く感じていた身体も軽くなってくるから笑ってしまう。
手に持っていた携帯がブブと震える。
パチンと音を立てて画面を覗くと、イルカからのメールで。
『分かりました。お疲れでしょうが、少しだけでも会いたいです。だから、電車で寝過ごしたりしないで下さいね』
そんな、随分と可愛らしい返信を貰ってしまったカカシは、電車待ちの人が多いホームでその頬を盛大に緩めてしまった。
これだから、携帯は手放せない。
恥ずかしがり屋な恋人は、いつもはなかなか言ってくれない事もメールなら言ってくれる事が多いから。
『オレだってあなたに会いたいんです。大丈夫。久しぶりに会えるのが嬉しくて、疲れも眠気もどこかへ行ってしまっていますよ』
そんな甘い言葉をメールに載せてイルカへと送ると、大切な携帯を内ポケットに大事そうに仕舞い、ちょうどホームに滑り込んできた電車にカカシは乗り込んだ。


「カカシ先生、学会、お疲れ様でしたっ!・・・って、ぅわっ!」
イルカのアパートを訪れ、満面の笑みを浮かべたイルカに嬉しそうに出迎えられたカカシは、まだ靴も脱いでいないというのに、その身体を引き寄せ、しっかりと抱き締めてしまった。
「あぁ、久しぶりのイルカ先生だ」
玄関先で暖かいその身体を抱き込んだまま、しばらくそうしていると、イルカの手がおずおずと背中に回ってきて。
「・・・凄く会いたかった」
そう言いながら、そっと身体を離してイルカの瞳を覗き込むカカシに、イルカは恥ずかしそうにしながらも、「俺もです」と笑みを浮かべてそう言ってくれた。
そうして。
ようやく部屋にあがり、イルカが淹れてくれたお茶を飲みながら、学会の事や会えなかった間の事を止め処なく話していたカカシだったのだが。
幸せで楽しい時間はあっという間に過ぎてしまい、ついに、日付変更の時間になってしまった。
(帰りたくない・・・)
もっと一緒に居たいと思っているのはカカシだけではないらしく、カカシが来た時はあんなに嬉しそうだったイルカが、だんだんと元気が無くなっていくのが分かるから、余計にそう思ってしまう。
しかし、明日も仕事がある二人だから、そろそろ帰った方がいいだろうと、カカシは残っていたお茶を飲み干すと、空になった湯呑みをテーブルに置き、「そろそろ帰ります」と切り出した。
途端に淋しそうな表情を浮かべるイルカに、苦笑してしまう。
「そんな顔しないで・・・」
触れてしまうと余計に帰りたくなくなるからと我慢していたというのに、淋しそうな表情を見せるイルカに我慢が出来なくなり、カカシは畳に片手を付いて、イルカへと顔を寄せた。
そんなカカシを、唇が触れ合う寸前まで淋しそうに揺れる瞳で真っ直ぐに見つめていたイルカが、その瞳をそっと閉じる。
深いキスは止まらなくなりそうだったから、貪ってしまいたいのを堪え、カカシはちゅと軽いキスだけに留めて、ゆっくりと唇を離した。
「・・・週末、泊まりに来ますから」
そのままイルカの身体を抱き込み、その耳元で暗に抱かせてと囁いたカカシの言葉に、イルカがかぁと赤くなる。
肘の辺りにイルカの手が掛かり、きゅっとスーツを掴まれる。
「その・・・、待ってます・・・」
もの凄く小さな声でそう応えられたカカシは、ふと笑みを浮かべると、再度イルカに軽く口付けた。
「また電車で。ね?」
イルカの真っ赤に染まった頬に手を添えてそう告げ、カカシは後ろ髪を引かれる思いで立ち上がった。


その後、暖かいイルカの家を出て、寒空の下、駅へと歩きながら。
カカシは、いつかイルカと一緒に住めたらいいと思った。