雨のバス停






その日の午後。
大学を直帰にしたカカシは、懇意にして貰っている古書店へと足を運んでいた。
珍しい古書が手に入ったからと連絡を受けて行ったのだが、それ程貴重な物でもないだろうというカカシの予想は良い意味で裏切られた。
早速譲って貰い、出来れば持ち帰りたい所だったのだが今日は生憎の雨で。
持ち帰る事を早々に断念したカカシは、代わりにギリギリまでその古書店でそれを読み耽った。
夜になり、もう店を閉めるからと店主に追い出され、バスで最寄り駅まで戻ろうとこうやってバス停までの道を辿っている今も、先ほどまで浸っていた本の世界に心が高揚している。
ともすれば緩みそうになる口元。それを引き締め直していたカカシは、向かっていた先に今朝見た後姿を見つけ、引き締めたばかりの口元を緩めてしまった。
まだ少し遠い所に居るその後姿に声を掛けてみる。
「イルカ先生?」
今のカカシの心を反映しているのだろう。自分の声が少し弾んでいるのが分かるから、苦笑してしまう。
カカシのその声に傘を揺らして振り返ったその人は、やはりというか、恋人であるイルカだった。
「カカシ先生っ」
カカシの姿を見止めたイルカが、ぱぁと顔を綻ばせる。
会えて嬉しいと言葉よりも雄弁な笑顔でそう伝えられ、カカシの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
カカシがこれからバスで向かおうとしていた最寄り駅は、イルカが普段使っている駅だ。
駅で学校帰りのイルカに偶然会えるかもと僅かな期待をしてはいたが、こんな所でイルカに会えるなんて思っていなかった。偶然会えてカカシも嬉しい。
立ち止まり、カカシを待ってくれているイルカの元へ急いで向かう。
イルカの家はここから駅までの距離と同じくらい離れているのだが、どうしてこんなところにイルカがいるのか。
「偶然ですね。こっちに何か用事でもあったの?」
隣に並び立ちそう訊ねてみると、イルカはふると首を振った。
「これから馴染みの店にラーメン食べに行こうと思って。あ、カカシ先生もどうですか?」
言われてみれば夕飯の時刻だ。今日は昼飯も軽くしか食べておらず、空腹を思い出したカカシは「いいですね」と笑顔でイルカの誘いに乗った。


イルカ馴染みのラーメン店は、路地裏のひっそりとした一角にあった。
頑固そうではあるが、気の良い親父さんとその娘さんとで営業しているらしい。
一楽と大きく書かれた暖簾を二人一緒に潜り、暖かい店内で出されたラーメンはコッテリとしていたが美味しかった。
「・・・美味しいですか?」
カウンター席で隣に座るイルカが、麺を一口食べたカカシへそう訊ねてくる。その表情は少しだけ不安そう。
笑みを浮かべて一つ頷く。
「凄く美味しい。こんなに美味しいラーメン、久しぶりに食べました」
そう告げると、イルカはホッとしたような笑みを浮かべた。
親父さんと仲が良いのだろう。イルカが親父さんに、まるで自分が褒められたような嬉しそうな笑みを見せている。
そんな二人を見て、親子のようだなとカカシは思った。
カカシと同じく、イルカも両親は既に他界している。
代わりではないだろうが、慕っているのだろう。親父さんもイルカを可愛がっている風があるから、余計にそう思ってしまう。
「仲がいいですね」
そう言ってみたら、イルカが恥ずかしそうな表情を向けてきた。鼻頭の傷を掻くのは、イルカが照れている時の癖だ。
「・・・以前は毎晩通ってたんです。一人だと作るのが面倒で・・・。そうしたら、親父さんといつの間にか仲良くなってました」
「そういや毎晩通ってたなぁ。今はたまにしか通ってくれねぇが・・・、おめぇ、彼女でも出来たんじゃねぇか?」
親父さんがニヤリと笑みを浮かべて言ったその言葉に、水を飲もうとしていたカカシは危うく噴出す所だった。代わりに汁を飲んでいたイルカが盛大に噴出し、咳き込む。
飲もうとしていた水を慌ててカウンターに置き、その背を擦っていると、娘さんが「大丈夫ですか?」と水の入ったコップを渡してくれた。
「ありがとうございます。・・・イルカ先生、大丈夫?」
ゴホゴホとまだ咳き込んでいるイルカを覗き込む。
「だ・・・っ、だいじょうぶ・・・ですっ」
カカシが差し出したコップを受け取りながら、涙目になってそう答えるイルカに苦笑してしまう。
「図星指されたからって、そんなに慌てる事ないのに」
くつくつと笑いながらそう言ってみると、かぁと真っ赤になったイルカがコップの水を飲みながら、カカシを軽く睨んできた。
「それ、本当ですか?」
カカシの言葉に、それまで心配そうにイルカを伺っていた娘さんが食いつく。
「うん。オレも知ってる人ですけど、電車でイルカ先生に一目惚れしたんだって。イルカ先生の事が大好きでホントはもっと一緒に居たいんだけど、お互い社会人だから忙しくてなかなか一緒に居られないって淋しがってますよ」
そんな事をニッコリ笑顔で言ってみると、娘さんはキラキラと瞳を輝かせてカカシへと身を乗り出してきた。
「うわー。可愛い彼女さんですね」
「でしょー?」
「ちょっと、カカシ先生・・・っ。何言ってるんですか・・・っ」
イルカが慌てた表情でカカシの腕を掴んでくる。
「でも、ホントの事でしょ?」
柔らかな笑みを浮かべてそう言うと、カカシの冗談めかした告白が余程恥ずかしかったのか、イルカは真っ赤になって俯いてしまった。


そうやって楽しい時間を過ごした一楽を出た後。
「それじゃ、オレはこれで」と駅行きのバス停に向かおうとしたカカシは、イルカにスーツの袖をツンと引っ張られ、引き止められた。
「・・・駅まで一緒に行きます」
「ん?駅に用事があるの?」
イルカの家へ向かうバス停は逆方向だ。駅に用事でもあるのかとそう訊ねてみると、イルカはふると首を振った。
「・・・俺だって、もっと一緒に居たいって思ってますから」
そんな事をぼそぼそと告げられて、カカシの口元がふと緩んだ。
俯いているイルカをそっと覗き込むと、真っ赤になったイルカが居て。それを見たカカシの目元がふわりと緩む。
「・・・じゃあ、駅まで一緒に」
笑みを浮かべてそう言うと、それに一つ頷いたイルカが、雨の降る中カカシが向かおうとしていたバス停の方向へと先に立って歩き出す。
カカシの袖を掴んだまま。ゆっくりと。
雨が降っているし人通りのない路地裏だから、人に見られる心配はそれ程ない。
ないけれど。
いくら人通りがないとはいえ、ここは外で。外ではカカシとの接触を極力避けるイルカが触れてくれている。それがとても嬉しい。
「・・・いいの?」
傘で見えないイルカの背中にそっと問い掛ける。
すると。
「・・・雨が降ってるし、バス停までです」
そう言ったイルカが、裾を握っていた手を離してカカシの指へと絡めてきた。暖かいその手にきゅっと握られる。
雨が降る中、人影のない路地裏を二人手を繋いでバス停までゆっくりと歩く。
ずっと続けばいい。
イルカの手をきゅっと握り返し、ふと笑みを浮かべながら、カカシはそんな事を思った。