ベルマーク






もうすぐ春がやって来るのだろう。
ふと気付けば、研究室の窓の外。キャンパスの中庭に植えられている梅の木が、可憐なピンク色の花を咲かせている。
学生たちと共に日々バタバタと過ごしていたからか、季節が冬から春へと移り変わり始めていたのに今日まで気付かなかった。
珈琲カップ片手に中庭を見下ろすカカシのマスクの下、小さな苦笑が零れ落ちる。
(ま、終わったの昨日だしね・・・)
修論に引き続き卒論発表も無事に終わり、カカシが預かっていたゼミ生たち全員の卒業が決定したのは昨日の事だ。
大学ではいつも着けている埃除けのマスクを指先で引き下ろし、暖かな珈琲を啜るカカシの背後では、各机のあちらこちらでうず高く積まれていた資料を片付ける作業が始められている。
連日、遅くまで残って修論・卒論を頑張っていたからだろう。論文からようやく解放され、片付けの合間に昼食を摂るゼミ生たちの表情はどこか晴れやかだ。
僅かに残っていた珈琲を飲み干し、下ろしていたマスクを引き上げる。そうして、さて続きをやるかと空になったカップ片手に振り返ったカカシの視線の先。
「あ、待って!捨てないで」
学生たちがデザートで食べていたお菓子の箱が、ゴミ箱に捨てられようとしているのに気付いたカカシは思わず、そう声を掛けてしまっていた。
お菓子の箱を捨てようとしていた学生が、その動きをピタリと止め、カカシへと不思議そうな表情を向けてくる。
「ソレ、ベルマーク付いてるでしょ。ちょうだい?」
カカシの思い違いでなければ、そのメーカーのお菓子には全てベルマークが付いているはずだ。手を差し出しながらそう告げた途端、思い切り意外だという顔をされて苦笑する。
「はたけ先生、ベルマークなんて集めてるんですか?」
お菓子の箱を手渡してくれた学生にそう訊ねられ、カカシは「ううん」と首を振った。
「オレじゃなくて、恋人がね」
「え・・・っ!?」
カカシが小さく笑みを浮かべてそう告げた途端、お菓子の箱を渡してくれた学生だけでなく、その場に居た全員がカカシをバッと振り向いた。
「恋人って、クリスマスイブの夜に泊まったっていう、あの恋人ですよね?」
「はたけ先生の恋人ってどんな人なんですか?」
「ベルマーク集めてるって事は、教育関係者とか?」
「ここの先生ですか?違う大学の先生?それとも学生ですか?」
クリスマスイブの夜、恋人の家に泊まった事が学生たちに知られて以降、学生たちはどうやらカカシの恋人の事が気になっていたらしい。周囲をずらりと囲まれ、あれこれと質問責めされて苦笑してしまう。
「凄くカワイイよ。後はナイショ」
男女関係なく、恋話に沸く年頃だ。そう答えると、学生たちは身を乗り出してさらに質問を浴びせ掛けて来たが、カカシはそれらの質問をのらりくらりとかわし、後はもう答える事をしなかった。
カカシの恋人であるイルカは、カカシと同じ男性だ。
異端とされ、人になかなか言えない関係ではあるが、恥じている訳ではない。むしろカカシは、イルカがいかに可愛らしいか皆に惚気たいくらいだ。
けれど、二人は二人とも教育関係者であり、異端とされる二人の関係が公になれば、教育現場から離れなければならなくなるだろう。
カカシは大学を辞めても研究さえ出来れば良いが、小学校教諭が天職だと思うイルカからそれを奪いたくは無い。
誰にも言えず、外では手を繋ぐ事すら出来ない関係ではあるが、カカシはそれを面倒だと思った事など一度も無い。
そんな事も気にならないくらいイルカに惚れているからだ。
盲目的な恋は本の中だけの夢物語だと思っていただけに、イルカとの恋に溺れている自分が少し面映いが、本の世界にしか興味を見せなかったカカシにとって、それは良い傾向なのだろう。
ベルマークに関してもそうだ。
大学はベルマーク運動に参加しておらず、そもそも興味なんてものは全く無かったのだが、付属小学校はベルマーク運動に参加し、子供たちが集めたベルマークで高齢者福祉施設へ備品を寄贈するというボランティア活動に繋げているらしい。
子供たちとお年寄りとの交流を嬉しそうに話すイルカの姿を見て、喜んでもらえるかもと、ベルマークを集めてみようとカカシに思わせた恋の力は素晴らしかった。
何故なら。
カカシが集めている事を知ったゼミ生を中心に、その日以降少しずつ、ベルマークを集める習慣が大学内で広まっていったのだ。
気付けば、学食にベルマークを集める為の箱が置かれ、梅が散り、桜が咲く頃には早くも、学生たちが集めたベルマークが運動に参加している付属小学校に寄贈されるという、図らずもイルカが喜ぶ結果をもたらした。
「実は今、子供たちがお礼の手紙を書いてるんです」
年度末の忙しい合間を縫ってようやく会えた週末の夜。カカシの腕の中に素直に収まってくれたイルカが、嬉しそうな笑みを浮かべてそう報告してくる。
「お礼?」
「はい。『ベルマークを集めてくれたお兄さんお姉さんへ』って」
付属小学校から大学側へ、学食の掲示板に貼り出してもらえるよう頼んだのだという。
子供たちが一生懸命書いているというお礼の手紙を、学生たちが少々面映い笑みを浮かべて眺めるのだろうと思うと、カカシの口元にも面映い笑みが小さく浮かんでしまう。
「教育実習の時くらいしか、大学生とは交流が無かったんですけど・・・。カカシ先生のお陰ですね」
そんな事を言われ、カカシの顔に浮かんでいた笑みが苦笑に変わる。
イルカと学生たちを繋いだのはカカシかもしれないが、カカシはただ、イルカが喜ぶかもしれないという不純な動機でベルマークを集めていただけだ。礼を言われる程の事は何もしていない。
「オレじゃなくて、イルカ先生のお陰でしょ?オレは何もしてませんよ」
イルカの純な動機がカカシを動かし、カカシの少々不純な動機が学生たちを動かした。
今回の事の切っ掛けとなった腕の中の存在が堪らなく愛しい。イルカを抱く腕を強め、下ろしている黒髪に鼻先を埋める。
「俺だって何もしてませんよ。ただベルマークを集めてただけです。・・・恋人がちょっと手伝ってくれましたけど」
それを聞いたカカシの眉根がわざとらしく寄せられる。
『ちょっと』と言われるのは少々心外だ。カカシは今でも、イルカの喜ぶ顔が見たくてベルマークを一生懸命集めているのだから。
「『ちょっと』なの?」
わざと寄せた眉間の皺をそのままにイルカの瞳を窺う。すると、少々拗ねた表情を浮かべたカカシに気付いたイルカが、ぷっと小さく吹き出した。
日に焼けたイルカの暖かな手が伸ばされ、ヨシヨシと小さな子供を褒めるように頭を撫でられる。
「いっぱい、です。いつもありがとうございます、カカシ先生」
擽ったいと首を竦めるカカシの口元に、ふと小さく笑みが浮かぶ。
イルカに撫でられた所から溢れ出すこの暖かな想いを、何と表現すれば良いだろう。
ありとあらゆる本を読んでいると自負するカカシであるが、胸擽られるこの想いを的確に言葉で表すのは難しい。
『楽しい』でもなく、『嬉しい』とも違う。
(何だろ・・・)
思考の海を漂い始めたカカシをイルカが不思議そうに窺う。
可愛らしいその表情を見て、『愛おしい』が近いかもしれないと思い、ふとその言葉に気付く。
「・・・『かなしい』だ・・・」
「え・・・?」
心震わせる程の想い。切ない程に愛おしい気持ちを表す言葉、『愛しい』―――。
声に出したその言葉が、胸に溢れる想いにピタリと当てはまる事に気付き、不覚にも涙が浮かびそうになってしまう。
「カカシ先生?」
情けなくなっているだろう顔を見られたくない。見つめるイルカの身体を強く抱き寄せたカカシは、その耳元に唇を寄せた。溢れる想いを言葉として伝える。
「どうしよ。イルカ先生が好き過ぎて、泣きそうになっちゃった・・・」
小さく苦笑を含ませてそう告げると、「ちょっと、止めて下さいよ」と怒ったようなイルカの声が聞こえてきた。
「そんな事言われたら、俺まで泣きそうになるじゃないですか・・・っ」
泣きそうだと言っているが、既に泣いているのではないだろうか。イルカの鼻を啜る音が聞こえてきている。
(あぁもう・・・)
愛し過ぎてどうしよう。
イルカの背を撫で擦りながらそんな事を思うカカシは、いつも乗るあの電車で、こんなにも愛しいと思える存在に出会えた奇跡に感謝していた。