幸せの音






随分と遅れていたが、ようやく梅雨入りしたのだろう。
緑豊かな庭の一角。淡い桃色の花弁を綻ばせ始めた紫陽花に、途絶える事無く雨が滴っている。
天空が厚い雲に覆われている外は夕刻という事もあり薄暗かったが、明るめの壁紙が貼られたリビング内は、愛妻であるイルカが台所に立つ前に点してくれた灯りも相まって、愛読書の文字を追うには充分の明るさを有していた。
煌々と点る灯りの下。ソファの背に深く凭れ、組んだ足の上で愛読書を拡げるカカシの節ばった指先が、次のページを静かに捲っていく。
その目元を僅かに綻ばせ、読書を楽しんでいるかのように見えるカカシであるが、楽しんでいるのは読書だけではない。
窓の外から絶えず聞こえて来る雨音に、台所に居るイルカが立てる物音が重なっており、愛読書の文字を追いながらも、カカシは聞こえて来るそれらの音に耳を澄ませていた。
水を使う音。不規則なまな板の音。
ぐつぐつと鍋が煮える音と共に、リビングにまで漂って来た美味そうな香りが鼻を擽り、愛読書の文字を追っていたカカシの視線がふと止まる。
夕飯を作ると言うイルカの邪魔をしないようにと始めた読書であるが、少し様子を見に行くくらいなら良いだろうか。
自分の為にと頑張って料理をしてくれているイルカの姿が見たい。
先日購入したばかりだという白いエプロン。それを身に着けたイルカの後ろ姿を思い浮かべた途端、居ても立っても居られなくなり、手に持っていた愛読書を傍らに置いたカカシは座っていたソファから立ち上がる。
イルカが居る台所はリビングのすぐ隣だ。ソファから立ち上がっただけでも台所に立つイルカの後姿を窺う事は出来たが、漂って来る良い香りに釣られるように、カカシはイルカが居る台所へと足を向けた。
気配は常に消している。
台所へと入って来たカカシの存在に気付いていないのだろう。キッチンの前、腰の辺りで緩く結ばれたエプロンの白い紐を揺らして立つイルカの背に、カカシは驚かせないようそっと声を掛ける。
「・・・何作ってるの?」
「カカシ様」
イルカの傍らに立ち、玉杓子を持つその手元を覗き込みながらそう訊ねると、僅かに驚いた表情を浮かべて振り向いたイルカから、続いて面映そうな笑みを向けられた。
「鶏肉と大根の煮物です」
結婚するまで料理に関しては初心者だったイルカが、カカシの好物以外で最初に覚えた料理が煮物だ。
初めのうちこそ味にバラつきがあったり煮崩れたりしていたが、かなりの努力家であるイルカが料理の基本とも言える煮物に熟達するのは早かった。
最近では、二人のお気に入りの店である『萩屋』で出される煮物にも劣らない物が作れるようになって来ている。
ぐつぐつと煮立つ鍋の中。持っていた玉杓子で煮汁を少し掬ったイルカが、まな板の上に置かれていた小皿を手に取り、琥珀色の出汁をそれに注ぐ。
「味見をお願い出来ますか?」
肉を含んだ煮物の出汁は、灰汁を丁寧に取り除かなければ綺麗な琥珀色にはならない。
小皿に注がれた香り高く濁りの少ない琥珀色の出汁は、イルカが手間暇掛けて作ってくれた証拠だ。美味しくないはずが無い。
差し出された小皿を受け取り、琥珀色の出汁を口に含んだカカシの口元に、ふと小さく笑みが浮かぶ。
「ん。美味し」
深蒼の瞳を柔らかく細めてそう告げると、「良かった」と嬉しそうに顔を綻ばせるイルカが可愛らしい。
「後は煮込めば・・・」
そう言って落し蓋を手にするイルカの腰を引き寄せ、その頬にちゅっと軽い音を立ててキスを掠め取る。
「・・・っ」
突然キスされて驚いたのだろう。顔を真っ赤に染めたイルカが、カカシから距離を取ろうとして僅かにふら付く。
「・・・っと。危ないですよ、イルカ先生」
火を使っている最中だ。まな板の上には包丁だってある。
イルカの身体を拘束する腕の力を強め、危ないから動くなと暗に言い含めると、ピタと素直に動きを止めたイルカから軽く睨まれてしまった。
怒ってしまったのか、照れているのか。
危ないと分かっているのならしないで欲しいと言わんばかりに、その唇を僅かに尖らせるイルカが可愛らしい。腕の中に居る愛妻を見つめるカカシの深蒼の瞳が、ふと柔らかく細められる。
「ビックリさせてゴメンね?」
驚かせてしまった事を謝罪しながら、カカシは捕らえていたイルカの身体を解放する。
「いえ・・・」
小さく首を振りながらも、カカシの腕の中から解放された途端、少し淋しそうな表情を浮かべるイルカに苦笑してしまう。
(・・・かわいい)
二十年近く見守って来たのだ。イルカが可愛らしい事は良く見知っているつもりだったが、遠くから見るのと目の前で見せられるのとでは、これ程までに差があろうとは思ってもいなかった。
手に持っていた落し蓋を鍋の中へと落とすイルカの肩に顎を乗せ、カカシは温かなその身体に再び腕を回す。
「・・・カカシ様?」
「んー?」
すぐ近くから聞こえて来るイルカの不思議そうなその声に、カカシはイルカを抱く腕の力を少しだけ強める。
イルカをずっと見守って来たカカシは、だが、イルカにこうして触れる事は無いのだろうと思っていた。
太陽の下、たくさんの子供たちに囲まれるイルカの笑顔は眩しく、手を穢す事の多い自分が軽々しく触れてはいけない存在だと思っていたからだ。
遠くから見守る事しか出来なかった存在が、自らの腕の中、その呼吸音すら聞こえる距離に居る。
(・・・怖いな・・・)
幸せ過ぎて怖いなんて、そんな事を思う日が来ようとは思ってもいなかった。イルカの首筋に顔を埋めるカカシの口元に、ふと小さく苦笑が浮かぶ。
カカシに背後から抱き締められ、少し緊張しているのだろう。カカシの耳に聞こえるイルカの鼓動が早い。
「あの、カカシ様・・・?」
イルカの身体を抱き締めたまま動こうとしないカカシへと、イルカがそっと声を掛けてくる。
料理の邪魔をしている自覚はあるが、トクトクと鳴るイルカの鼓動や息遣いをもう少しだけ聞いていたい。
「もうちょっとだけ・・・」
首筋に顔を埋めたままそう告げるカカシの声が少し掠れている事に気付いたのだろう。カカシの腕の中、落ち着かない様子だったイルカの身体から徐々に力が抜けていく。
くつくつと煮立つ鍋の音に、トクントクンと落ち着いてきたイルカの鼓動が重なる。
深蒼の瞳をそっと閉じ、聞こえて来る色んな音に耳を澄ませるカカシは、しばらくの間、ようやく手に入れたその温もりを心行くまで味わっていた。