「心配かけてごめんね」 それをイルカが聞いたのは、事が起こってから既に一週間経った後だった。 二週間前。 少し難しい任務に就くことになったカカシが心配で、イルカは出立の時になっても笑顔を見せられなかった。笑顔で「御武運を」と言って送り出さなければならなかったのに。 任務前のカカシに、余計な事を煩わせたくなかったのに。 玄関先に座り込んで脚絆を履くカカシを泣きそうな顔で見つめていたイルカに、履き終えて立ち上がり振り返ったカカシは「大丈夫」と笑みを見せた。 「ちゃんと帰ってくるから、心配しないで待っていて」 早く終わらせてすぐに帰ってきますよ。 そう言って、カカシはイルカの頬を愛おしそうにひと撫でしてから、背を向けて出掛けていった。 その少し丸まった大好きな背を、イルカは玄関からいつまでも見送った。 どうか無事で。 まだカカシの手の温度が残る頬に自分の手を添えながら、イルカはそう祈った。 帰還予定はその日から二週間後だった。 だから、気付くのが遅れた。 カカシが一週間も早く任務を終わらせて帰還していたなんて。 イルカは気付けなかった。 火影や周りの者たちが、イルカにだけ知らせないようにしていたなんて。 受付所を飛び出す。 慌てているからドアに肩を思いっきりぶつけたが、構わずイルカは走り出した。 痛みも感じないくらい急いでいた。 (カカシさん・・・っ) 向かう先は病院。カカシが今いるとたった今聞いた場所。 足が滑りそうになりながら、綺麗に磨かれた廊下の角を曲がる。そうして、真っ直ぐに伸びる廊下をチャクラを使ってまで足を速めて走る。 普段、廊下は走るなと子供たちに叱っているイルカだけれど。 今だけはどうか許して欲しい。 カカシの無事を確認したら、もう絶対に廊下を走ったりしないから、どうか今だけ。 廊下の突き当たりにある窓から外へと飛び出したイルカは、そばにある木へと跳躍した。 片手で木の枝を掴み、身体を思いっきり遠くへと放る。枝が身体を掠るその少しの障害すら、いつになく急いでいるイルカには疎ましかった。 (カカシさん・・・っ!) どうして誰も教えてくれなかったのだ。 カカシが一週間も前に、かなりの重傷を負って帰還したという事を。 意識も殆どない状態で病院へ運び込まれて、今も面会謝絶だという事を。 イルカだけが知らされていなかった。 みんな知っていたのに、イルカだけが。 (どうして・・・ッ!) 地面に着地すると同時に、身体中のチャクラを足に集中させる。 地面が少し抉れてしまうほどのチャクラを足に溜めて、イルカは風を切って走っていく。病院はすぐそこのはずなのに、やけに遠く感じた。 懸命に走るイルカに、後悔が襲ってくる。 あの時、作ってでも笑顔を見せて見送ればよかった。 イルカが不安そうな顔をしたから、だからカカシは早く帰ってこようと無理をしたのかもしれない。 自分があんな顔をしなければ、笑顔を見せていれば、カカシは重傷なんて負わなくても済んだのかもしれないのに。 涙が浮かびそうになりながら走って走って、やっと病院に辿り着く。 (どこに・・・っ) カカシの病室を誰かに聞こうにも、カカシが重傷だなんて一応極秘扱いにされているだろうから、聞いても教えては貰えないだろう。 病院の中へと入ったイルカは、不審に思われないよう、走りたいのを懸命に堪えて一階から順に病室を見て回った。 (ない・・・) 面会謝絶の赤い札を探して早足で歩くイルカを、すれ違った看護師が不思議そうに見たが、作り笑いを見せて誤魔化した。 一階では見つからなくて、誰もいない階段を走って上がり、再び足早に病室を探して歩き回る。 息があがる。胸が苦しい。 なかなか見つからない面会謝絶の札に、焦りからカカシの名を叫びそうになっていたイルカの視界に、小さくて赤い札が入ってきて。 (あったッ!) イルカは誰もいない廊下を、その病室の前まで走った。 ドアに面会謝絶の札はあっても、名前の表札はないからきっとカカシはここにいる。 息を乱したイルカは、そのドアを開けようとして躊躇った。 今になって恐怖が沸き起こってきたから。 このドアの向こうにいるカカシが、管に繋がれた瀕死の状態だったらどうしよう。 そうして、もう二度とあの深い藍色の瞳を見る事が出来ないのだとしたら。 イルカを見て愛おしそうに細められるその瞳を、もう見られないのだとしたら。 そう考えた途端に、ドアにかけようとしていた手がカタカタと震えだした。 体からさぁと血の気が引いて平衡感覚を失いそうになったイルカは、ぐっと足を踏ん張り、軽く頭を振って正気を保った。 (しっかりしろ!) きっとカカシは大丈夫。 だってカカシが任務に就く前に言ったのだ。「大丈夫」と。 イルカはカカシのその優しい声を思い出し、頭の中で何度も何度も再生しながら、霞む目を眇めてドアに手をかけた。 そうしてゆっくりと開ける。ことさらゆっくりと。 イルカの視界に病室の様子が入ってくる。 窓から太陽の光が差し込みとても明るいその部屋の中、ベッドは一つだけ。 その周りを囲むように、淡い色合いのカーテンが引かれていて中が伺えない。 ふると一度震えたイルカは、ぐっと手を握り締めると歩みを進めた。背後でドアがゆっくりと閉まるのを感じながら、一歩一歩ベッドへと近づいていく。 イルカは気配を消していないからイルカがここにいる事は分かっているはずなのに、声を掛けてこないカカシに、やはり声を出せないくらい重傷なのかと恐怖が増す。 震える手でカーテンを掴む。 (怖い・・・) 開けるのが怖い。 この向こうに広がる光景を見るのが怖い。 一度だけそっと息を吸い込むと、イルカはカーテンをぐっと掴みなおして、勢いよく開けた。 どくんと心臓が大きく脈打つ。 せっかく開けたカーテンを、イルカは再び同じ勢いで閉めてしまった。 そうして、カーテンを握り締めたままの手に額当てを当てて涙を零す。ぽろぽろと。 (生きてた・・・っ) カカシはちゃんと生きていた。 真っ白な浴衣を着て、胸にはこれも真っ白な包帯を巻いてベッドで目を閉じて横たわっていたけれど、その胸がしっかりと上下しているのを確認したイルカは、そんなカカシを見ていられずにカーテンを閉めてしまったのだ。 だって、生きていると確認はしたけれど、青白い顔をしてまるで死んだように眠るカカシが怖くて見ていられない。 穏やかなその眠りを妨げてまで、目を開けてと言いたくなってしまったから。 でも、こんなに泣いていたらカカシを起こしてしまう。 泣き止みたくても、涙腺の壊れた目からは次から次へと涙が溢れて零れ落ちる。 それが優しい色をした床に当たるトトッという微かな音さえ、今のイルカには新たな涙を誘ってしまい。 (カカシさん・・・、カカシさん・・・っ) カーテンを握ったままずるずると座り込みながら、カカシの名をずっと心の中で呼び続けた。 生きていて良かった。 置いて逝かれなくて良かった。 忍の心得を指導する立場にありながら、こんなに涙を流すなんて教育者として失格だと思う。こんな姿、とても生徒たちには見せられない。 でも仕方ないだろう? だって、今のイルカは教育者ではなく、先生ではなく。 ただ、カカシに恋する一人の男なのだから。 奥歯を噛み締め嗚咽を堪えて泣いているイルカの耳に、ベッドの軋む音が聞こえてきた。 「・・・イルカ、せんせ・・・?」 それと、掠れてしまっているがイルカの大好きな低い声も。 カーテンを開けてカカシの姿を見たいけれど、ここを開けたらカカシが幻のように消えてしまいそうで開けられない。 堪えていた嗚咽が漏れ出す。 体を震わせて泣くイルカの、カーテンを握り締めている手のカーテン越しにそっと何かが触れた。 「開けて・・・?」 カカシがすぐ側まで来ていた。 「ここ、開けて。イルカ先生」 先ほどとは違って、少ししっかりした声でそう言われたイルカは、きつく握り締めていた手を震えながらやっとの思いで開いた。カーテンが手から離れていく。 と、すぐに白い手がちらと見えてそれを掴んだ。 シャッと音を立てて開けられたそこから、カカシの姿が現れる。 腹を庇うように手で押さえてはいるが、しっかりとその足で立ち、右目を開けてその瞳で見つめてくるカカシを見たイルカは、ぼろぼろと涙を零し顔を両手で覆うと蹲ってしまった。 「イルカ先生・・・」 そんなイルカを、カカシがそっと上から覆い被さるように抱き寄せる。 抱きつきたいけれど、怪我が痛むらしいカカシの体には抱きつけなくて。イルカは俯いたままぎゅっとカカシの浴衣を握り締めた。 そんなイルカの顔をカカシの手が取りそっと上げさせる。 見上げたカカシは、済まなそうな顔をしていて。 「心配かけてごめんね」 Copyright © ぞら様 そう言って、任務の前に撫でてくれた頬にそっと手を添えたカカシは、涙の止まらないイルカの顔にちゅと口付けてくれた。 言葉が出てこない。 ふるふると首を振って、イルカは涙で濡れている顔に笑みを浮かべた。懸命に。 「お帰りなさい」 震えているし、まともな声になんてなっていなかったけれど。 カカシは、イルカのその口の動きで分かったのか、笑みを浮かべてくれた。 「ただいま、イルカ先生」 こくこくと頷いて。 イルカは再び涙を流した。カカシの腕の中で。 |
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