夫婦喧嘩は犬も喰わない






忙し過ぎて死にそうだ。
麗らかな午後の日差しが窓から差し込む受付所内。数人の同僚と共にカウンターに着き、次から次へとやって来る報告者の対応に追われるイルカは、人の波が途切れた所ではぁと盛大な溜息を吐く。
大蛇丸による木ノ葉崩しで壊滅的な被害を受けた木ノ葉の里は、だが、他里にそれを悟られない為にも、引っ切り無しに入って来る任務を一切断っていない。
落ちている戦力で、いかに任務をこなすか。
里長である三代目火影を失った今、火影より直々に任命されるSランク任務はさすがに請け負っていないようだが、それ以外全ての任務を取り仕切る受付所の者たちは、いつも以上の努力が求められていた。
イルカの溜息の原因はそれだけではない。
―――口出し無用!あいつ等はもうあなたの生徒じゃない。今は、私の部下です。
中忍選抜試験に推薦する者たちを決める席で、この春から恋人となったカカシから初めて向けられた厳しい言葉もまた、イルカが気鬱となる原因を作っていた。
―――ナルトはあなたとは違う!
教え子だった子供たちの事が心配だったとはいえ、カッとなってあんな事を言ってしまったのは、明らかにイルカの方が悪い。
死の森で行われた第二の試験を子供たちが無事に突破し、カカシの言い分が正しかった事を知ったイルカだが、喧嘩してしまったカカシとは未だ仲直りが出来ていない。
里の主戦力であるカカシが任務で忙しく、なかなか会えないという事もあるのだが、あれだけ激しく衝突してしまったからだろう。気まずさもあり、素直に謝る事が出来ないのだ。
このままではいけない。きちんと謝らなければと思いつつも、たまに会えば剣呑な雰囲気が漂ってしまい、仲直りする切っ掛けを掴めずにいる。
(・・・だいたい、カカシさんも悪い)
座っている椅子に深く凭れ、受理した報告書の束を整えるイルカは僅かに唇を尖らせる。
イルカが謝りたいと思っている事に気付いているだろうに、まともに口を利こうとせず、謝る切っ掛けを与えてくれないカカシも悪い。
早く仲直りしたい―――。
漆黒の瞳を切なく眇めるイルカが、そんな事を思いながらふと小さく溜息を吐いた時。
「辛気臭い溜息じゃの、若造」
「・・・っ」
カウンターの上に突如現れたパックンから、呆れたような溜息と共にそう声を掛けられた。
カカシの忍犬であるパックンがここに居るという事は、カカシが任務から戻って来たという事に他ならない。
今日こそは謝りたい。謝らせて欲しい。
そう願いながら急いで顔を上げたイルカの視線の先。
まだ許してくれていないのだろう。冷ややかな眼差しで見下ろして来るカカシの姿を見止めたイルカは、思わず、その顔に憮然とした表情を浮かべていた。
そんな二人の間。
「ほれ、報告書じゃ」
イルカとは口も利きたくないのだろうか。カウンター上に座るパックンから報告書を差し出されたイルカは、悲しくなると同時に、大人気ない事をするカカシに憤ってしまう。
「お預かりしますッ!」
必要以上に大きな声で告げたイルカのその言葉で、二人の剣呑な雰囲気に気付いたのだろう。それまで騒がしかった受付所内が、しんと静まり返る。
まだ喧嘩してるのかとか、いい加減に謝れとか。
周囲に居る同僚たちから聞こえて来る小さな声を無視するイルカは、受け取った報告書へと視線を落とす。
(・・・あれ?)
部下に書かせたのだろうか。報告書に書かれた文字は、見慣れたカカシの字ではなかった。
その事を訝しがりながらも、相変わらず過酷を極めるカカシの任務報告書をチェックするイルカは、部隊長であるカカシの署名漏れを見止め、その顔を上げた。
「ここに署名して下さい」
硬い声でそう言いながら、持っていたペンを差し出すも、小さく溜息を吐くカカシがそれを受け取る事は無かった。
「名前くらいイイでしょ?書いておいて」
あらぬ方向を向くカカシからそんな事を返され、イルカの頭に軽く血が上る。
「自署でなければ受理出来ません!・・・それとも」
そう言いながら声の調子を落としたイルカは、カカシを見上げるその顔に、揶揄する笑みを浮かべて見せた。
「・・・ご自分の名前も書けないんですか?」
そんな厭味をぶつけると、それを聞いたカカシの深蒼の瞳がすぅと細められた。冷ややかな眼差しがイルカへと戻って来る。
静まり返っていた受付所が騒然とし始める中、周囲から止めておけと制止されるも、引くに引けないイルカは一歩も譲らずカカシを見上げ続けた。
一触即発の緊迫した雰囲気が漂う中。
「正直に言え。カカシ」
呆れたような溜息を吐くパックンから、そんな言葉が発せられた。それを聞いたカカシが、一呼吸の後、仕方ないと言うように小さく溜息を吐く。
「書けないんですよ」
「え・・・?」
どういう事かと首を傾げるイルカの視線の先。それまでズボンの中に差し入れられたままだったカカシの両手が掲げられる。
「今回の任務で少しやられちゃいましてね。一時的だろうと思いますが、手先がまだ痺れてるんです」
「・・・っ」
自嘲の笑みを浮かべるカカシからそう告げられ、小さく息を呑むイルカは漆黒の瞳を大きく見開いていた。
(報告書には、そんな事どこにも・・・っ)
カカシの字ではなかったが、報告書にはカカシが負傷したなんて事は書かれていなかった。
動揺するイルカが確認の為に手元の報告書に視線を落とすと、苦笑したのだろうか。
「隊長がやられたなんて、みっともなくて言えないでしょ?」
ふと小さく笑う気配と共に、そんな言葉がイルカの頭上から聞こえて来た。
言えなかったのではなく、言わなかったのではないだろうか。
やはりというか、負傷者の欄にカカシの名が無い事を確認したイルカは、その唇を僅かに噛み締める。
いつだってそうだ。
いつもいつも、カカシは大事な事に限って何も口にしようとしない。
「そういう事はちゃんと言って下さい・・・ッ」
報告書に書かれた文字がカカシの字ではなかった時点で気付けば良いのに、何も気付かず厭味な事を言ってしまった自分の愚鈍さが嫌になる。
唸るように告げたイルカは、傍らの同僚に「ちょっと抜ける」と言い置き、座っていた椅子から立ち上がった。
「病院に行きますよ、カカシさん」
カウンターを回り込み、カカシの傍らに立ったイルカがそう告げると、それを聞いたカカシの顔に苦笑が浮かんだ。
「たいした怪我じゃないから大丈・・・」
「大丈夫じゃないッ!」
大丈夫だと返すカカシにそう一喝したイルカは、深蒼の瞳を僅かに見開いているカカシをひたと見つめた。
「・・・署名して貰わないと俺が困るんです。さっさと行きますよ」
素直にカカシの身が心配なのだと言えない自分も嫌になる。
天邪鬼な自分をもどかしく思いながらそう告げると、そんなイルカの性格を分かっているのだろう。苦笑を深め、「ん」と返すカカシの深蒼の瞳が柔らかく細められた。
カカシのこんなにも柔らかい表情は久しぶりに見る。
これなら謝罪を受け入れて貰えるかもしれない。
そう思い、嬉しさから滲みそうになる涙を堪えて先に立って歩き出したイルカの背後。
「・・・もうワシを巻き込むなよ、カカシ」
煙を上げて消えたのだろう。ぼふんという音と共に、最後まで呆れたような声でそう告げるパックンの言葉を聞いたイルカは、カカシも同じだったのかと盛大に苦笑してしまっていた。






「昼の受付所で夫婦喧嘩」というお題を頂いて、パックンの呆れ顔しか浮かびませんでした。←