おはじき






昼間は子供たちの声で賑わっているのだろう校舎も、夜になればとても静かだ。
その校舎内で唯一、煌々と灯りが点る職員室。
そこに設置されたソファに座るカカシは、目の前に開いた愛読書を眺めながら小さく溜息を吐いていた。
残業しているイルカを待とうとこのソファに座って、もうどれくらい経つだろうか。
組んだ足の上に愛読書を置き、机に向かっているイルカを見つめてみる。
そのイルカは、テストの結果が思っていた以上に悪かったのか、眉間に皺を寄せながら赤ペンを走らせ採点をしている。
「・・・いくら待ってても呑みには行けませんよ。カカシ先生」
カカシが吐いた小さな溜息が聞こえてしまったのか、不意にイルカがそんな事を言う。その視線をチラとも向けないまま。
それにふと笑みを浮かべたカカシは、足の上で開いたままだった愛読書を閉じ、腰のポーチにそれを仕舞った。ゆっくりと立ち上がり、イルカへと歩み寄る。
緊張しているのだろう。カカシが近付くにつれ、イルカの気配が硬くなるのが分かる。
「オレと呑みに行くのは、そんなにイヤ・・・?」
イルカが座る椅子の背に片手を置いたカカシはそう言って、机の上に向けられたままのイルカの顔を背後からそっと覗き込んだ。
至近距離で見つめるカカシから僅かに顔を逸らしたイルカの頬が、ほんのりと染まり始める。
「その・・・、採点がまだ残ってますし・・・」
そう返しながら、机の上に広げられた答案用紙から視線を逸らそうとしないイルカに苦笑する。
「あと少しみたいだし、終わるまで待ちますよ」
見れば、採点前の答案用紙は残る数枚だ。カカシがそう告げると、イルカは焦ったようにふると首を振った。
「他にも仕事が残ってますしっ、呑みには行けません・・・っ」
頑なにカカシの誘いを拒絶するイルカに、小さく溜息を吐く。すると、イルカの身体が僅かに震えた。
そんなイルカに少し悲しくなる。カカシはイルカを困らせたい訳でも、上忍の権力を振り翳して無理を強いたい訳でもない。
ただイルカが好きで、一緒に呑みたいだけなのだ。
上忍の気紛れだと思っているのか、それとも、大きな尾ひれを付けて流れているカカシの派手な噂を信じてしまっているのか。
誤解を解こうにも、頑なにカカシの誘いを拒否するイルカにどうする事も出来ず困ってしまう。
(嫌われてる訳ではないんだろうけどねぇ・・・)
カカシがこうして近付くと、必ずと言っていいほどイルカの頬が染まる。カカシの勘違いでなければ、イルカも好意を持ってくれていると思う。
だが、イルカの口から出るのはカカシを拒絶する言葉ばかりだ。
「・・・分かりました」
カカシがそう告げた途端、それまで視線を向ける事のなかったイルカが、縋るような眼差しを向けてくる。そんなイルカに内心苦笑しながら、カカシはイルカの机の上に手を伸ばした。
落し物なのだろう。そこに置かれていたおはじきを二つ手に取る。
「賭けをしましょ」
「賭け・・・?」
「そ」
不思議そうな表情を向けてくるイルカに笑みを浮かべて見せながら、カカシはそのおはじきをイルカの机の上に並べた。
「これを弾いて、机の端により近付けた方が勝ち。オレが勝ったら、オレと一緒に呑みに行く。イルカ先生が勝ったら・・・」
そう言いながら、カカシはその顔から笑みを消した。真摯な眼差しをイルカに向ける。
「もうイルカ先生の前には顔を出さない」
「え・・・」
これは賭けだ。イルカの気持ちを確かめる賭け。
「じゃあ、オレから」
驚いた表情を浮かべているイルカを余所に、カカシはおはじきを一つ、その指先で軽く弾いた。机の端から随分と離れた位置におはじきが止まる。イルカが勝つのは容易な程に。
「次、イルカ先生の番」
そう言って、カカシはイルカにおはじきを弾くよう促した。
だが、イルカは躊躇った。それはそうだろう。この賭けはイルカにとって賭けになってはおらず、カカシを受け入れるか拒絶するかの二択を迫られているのだから。
(お願いだからオレを受け入れて)
イルカを好きだと思うこの気持ちを、どうか疑わないで欲しい。そして、イルカの中にあるだろうカカシへの想いをもう隠さないで欲しい。
そんな想いを胸に、おはじきに視線を落としたまま動かないイルカを、カカシは何も言わずただ見つめ続けた。
イルカの震える唇が動く。
「・・・ですか・・・?」
「ん・・・?」
よく聞き取れなくて、イルカへと身体を倒す。
「俺、信じてもいいんですか・・・?」
小さな声でそう言ったイルカが、おずおずとカカシを見上げてくる。
何を、とは聞き返さなかった。
その漆黒の瞳が不安そうに揺れているのを見たカカシは、愛おしさからその瞳を眇めていた。ふと柔らかな笑みを浮かべてみせる。
「・・・ん、大丈夫」
イルカがその一歩を踏み出してくれるのなら、カカシはどんな事をしてもイルカを守ってみせよう。不安になんてさせない。
カカシは大丈夫というその声を優しく響かせ、イルカの背中にそっと手を添えた。おはじきを弾くよう再度促す。
イルカの手がゆっくりとおはじきに伸ばされ、そうして弾かれたおはじきは、机の上から床へと勢い良く滑り落ちた。




ようやく残業を終えたイルカと共に、アカデミーを出る。
すっかり遅くなってしまったが、まだ開いている居酒屋があるだろうか。
頭の中に入っている居酒屋をつらつらと思い浮かべながら、カカシは少し後ろを付いてくるイルカを振り返った。
「どこに行きましょうか。酒の旨い店か、肴の旨い店か・・・」
「え・・・っ?」
そう訊ねた途端、驚いた表情を浮かべるイルカに首を傾げる。思いもよらない事を言われたというイルカのその表情に少し不安になる。
カカシは賭けに勝ったと思っていたのだが、そうではなかったのだろうか。
「呑み、行くんでしょ?」
「あ・・・」
確認の為にそう訊ねてみると、イルカは何故かその顔を真っ赤に染めてしまった。カカシから視線を逸らし、鼻頭の傷を掻く。
「その、カカシ先生の家に行くんだとばかり思ってました・・・」
言われた意味が良く分からなくて、さらに首を傾げる。しばらくの間イルカを見つめてしまう。
「・・・すみません。俺、もの凄い勘違いしてました・・・」
真っ赤になって恥ずかしそうに俯いたイルカにそう謝られ、カカシはようやくそれに気付いた。
(って、即お持ち帰りされると思ってたのか・・・!)
イルカの中でカカシの印象はどうなっているのだろうか。勘違いにも程がある。
「・・・イルカ先生」
「はい・・・っ」
カカシの大きく溜息を吐きながらのその声に、俯いていたイルカが慌てて顔を上げる。だが、叱られるとでも思っているのか、その瞳は少々上目遣いだ。
可愛らしい表情を見せるイルカに苦笑してしまう。
「ちょっとその辺りじっくり話し合いましょ。居酒屋で。ね?」
ふと柔らかな笑みを浮かべたカカシは、そう言ってイルカの背に手を添えた。
魅力的な勘違いではあるが、まずはイルカにカカシの事を知ってもらう事から始めなければ。
恥ずかしそうな笑みを向けてくるイルカに、その瞳を柔らかく細める。
焦る必要なんてないのだ。
カカシは、あのおはじきの賭けに勝ったのだから。