ただのラクガキ






麗らかな春の日差しはどうしても眠気を誘われる。
川原にある大きな木の陰は特に、爽やかな風も相まって絶好の昼寝場所だった。
そこに寝転ぶカカシは、口布に隠されたその口元を愛読書で覆いながら、くぁと小さく欠伸を噛み殺す。
(・・・そろそろ終わりにするか)
太陽がだいぶ傾き、風が冷たくなって来ている。
大量のゴミが捨てられていた川原も、部下である三人の子供たちが一日中頑張ってくれたお陰で、元の綺麗な景色を取り戻していた。
目尻に滲む涙を指先で軽く拭いながら手に持つ愛読書を閉じ、よいしょと立ち上がる。
そうしてカカシは、少し離れた場所までゴミ拾いに行っている三人の子供たちへと声を掛けた。
「おーい。そろそろ終わりにするぞー」
カカシのその言葉を待っていたのだろう。
キリがないゴミ拾いに辟易していたのか、カカシを振り返った三人の子供たちは揃って、その顔に安堵したような表情を浮かべていた。




子供たちを先に帰し、カカシは一人、報告書を提出する為に受付所へと向かう。
長く暗部に所属し、久しく訪れる事も無かった受付所だが、今では毎日のように報告書を提出しにやって来ている。
その受付所で、いつものように報告書を提出していた時。
「ずっと気になっていたんですが・・・」
カカシは、カカシが提出した報告書を受理してくれていたイルカから、不思議そうな表情と共にそう切り出された。
「これって何ですか?」
そう言いながらカカシを見上げるイルカが指し示しているのは、カカシが提出した報告書の片隅に描かれている『へのへのもへじ』だ。
「あぁ・・・」
特に意味は無い。
もう癖になってしまっているのだろうただの落書きだが、カカシが書いたという証のようなものだ。
それが描かれるのは報告書だけではない。
忍犬の忍服や、その他の持ち物にも『へのへのもへじ』は描かれており、自分のものだという証のようなものでもある。
報告書に落書きするのはさすがに不味かったかと銀髪を掻くカカシがそう伝えると、イルカからは笑みと共に思いも寄らない言葉が返って来た。
「そうなんですか。何だか可愛いですね」
イルカを見下ろすカカシの深蒼の瞳が僅かに見開かれる。
(可愛いって・・・)
それを言うならイルカの方が―――。
そんな言葉が喉元まで出掛け、カカシはそんな自分に驚く。
何故そんな事を考えたのか。
片手で口元を覆い、考え込むカカシが眉間に軽く皺を寄せたからだろう。そんなカカシを見上げるイルカが、その顔に焦った表情を浮かべる。
「すみません!俺、失礼な事を・・・っ」
「・・・いえ、構いませんよ。そんな事を言われたのは初めてで、少しビックリしただけですから」
謝罪してくるイルカへと、カカシは苦笑しながらそう告げる。
するとイルカは、ホッとしたような笑みを浮かべて見せてくれた。
次から次へコロコロと変わるイルカの表情を見ながら、あぁそうかとカカシは気付く。
イルカは自分に無いものを持っている。
幼い頃から忍として自らの心を殺し、人を数知れず殺めてきた自分には無いものを。
そんなイルカを最初は疎ましいと思い、羨ましいとも思い、そして最近では、イルカに笑みを向けられると心地良いとも思っている。
(だからか・・・)
イルカを可愛いと思ってしまったのは、忍としての習性で他人との接触を苦手とするはずのカカシが、そんなイルカにもっと近付きたいと思っているから。
詰まる所、自分はイルカに―――。
「・・・はい、結構です。お疲れ様でした」
不備は無かったのだろう。落としていた報告書から顔を上げたイルカから笑みを向けられ、カカシの胸がトクンと小さく高鳴る。
正直過ぎる自分に内心苦笑しながら、その顔に笑みを浮かべたカカシは、「ありがと」とイルカに告げ、自らが抱くその想いを少し面映く感じながらその場を後にした。




それからのカカシの努力は涙ぐましいものがあったように思う。
少々鈍感な所のあるイルカへそれとなく好意を伝える事は難しく、焦れに焦れたカカシが正面切って告白してしまうという事態に陥った。
色恋沙汰には長けていたはずのカカシにとっては由々しき事態だったのだが、イルカに関してはその直球勝負が良かったのだろう。
カカシの気持ちに全く気付いていなかったらしいイルカは、だが、カカシの事を憎からず思っていてくれたらしく。
―――・・・その、お友達からなら・・・。
熟れた林檎のように真っ赤になったイルカから、そんな返事を貰う事が出来た。
拒絶されなかった時点で答えは出ている。
イルカの気持ちがカカシへと追い付くまで忠犬宜しく辛抱強く待ち、カカシが自らの恋心を自覚してから約一年後。
自分でも良く待ったと思うが、カカシはイルカの恋人という立場をようやく手に入れる事が出来たのだ。
転がり込んだイルカの家は思っていた以上に快適で、以前は無かった心穏やかな日々が続いている。
(・・・コレが切っ掛けだったんだよねぇ・・・)
小さく笑みを浮かべるカカシの視線の先。
掌で包む湯呑みに描かれているのは、カカシがイルカへの想いを自覚する切っ掛けになった『へのへのもへじ』だ。
湯呑みだけではない。
イルカの家には今や、その他にも色々と、カカシのものという証である『へのへのもへじ』が氾濫している。
「・・・どうかしましたか?」
湯呑みを見つめたまま笑みを浮かべているカカシが不思議だったのだろう。
卓袱台を挟んだ目の前。カカシと同じく湯呑みを掌で包み小さく首を傾げるイルカからそう訊ねられ、カカシの顔に浮かぶ笑みが深くなる。
「何でもありませんよ」
そう答えながら手に持った湯呑みを口元へ運ぶカカシは、イルカが淹れてくれた美味しい茶を啜りながら、この穏やかな日々がずっと続く事を願っていた。