駅 前編






雨の日は嫌いだ。

高耶は、天から絶え間なく降り注ぐ雨を折りたたみの少し小さい傘の下から見上げながら、小さく溜息を吐いた。
冷たい雨の日は特に嫌いだ。
この季節は大嫌いで、さらに冷たい雨が降っていると、高耶の機嫌は地を這ってるんじゃないかというくらい低くなる。
自然、眉間に皺は寄るし、ただでさえ鋭い眼光がさらに鋭利さを増すから。
(そりゃ、避けるだろうな)
混雑した駅前の通りを早足で歩く高耶を、すれ違う人々がその前に綺麗に避けて行ってくれる。
こんな『不機嫌です』と顔に書いてあるような高耶に、ぶつかろうなんて人はいないだろう。
混雑しているのに、傘すら誰とも触れ合う事無く駅へと辿り着いた高耶は、用のなくなったそれを閉じながらスーツの内ポケットから携帯を取り出した。
ちらと時間を確認して、いつもより全然早い時間の電車に乗れる事に気づく。
直帰にしたのは間違いだったかもしれない。
少し眉根を寄せながらそうは思っても、今朝干して出た雨に濡れてしまっているだろう洗濯物を取り込んで、早く洗濯しなおさなければ。
(明日の着替えがねぇぞ・・・)
ここ最近、雨続きのおかげで洗濯物が乾かず、今朝のテレビの天気予報で雨が降らないのを知って、鼻歌なんかも歌いながら大量の洗濯物をベランダに干したというのに。
朝はいい天気だった空が、昼過ぎにはもう泣き出しそうなくらいの雲を湛えていて。
天気予報のお姉さんにまたも裏切られた高耶の方が泣きそうになってしまったくらいだ。
(もう絶対信じねぇッ)
女心と秋の空というくらい変わりやすい季節なのだから、天気予報のお姉さんは何も悪くはないとは思うが。
アパートで高耶の帰りを待っている大量の洗濯物の事を思うと、恨みたくもなってくる。
それに、ランドリーに行かないと多分乾かない。
この雨の中、大量の洗濯物を抱えてアパートから少し歩かなければならない事も、今の高耶の機嫌を悪くする原因の一つになっていた。
手に持った携帯を改札にかざし、通り抜ける。
電車が来るまで少しだけ時間のあった高耶は、ホームのベンチに座ると内ポケットに携帯をしまうついでに、そこから綺麗にアイロン掛けされたハンカチを取り出した。
一人暮らしの高耶は、そのハンカチだって今着ているYシャツだって自分でアイロン掛けしているのだが。
洗濯の後に大量のアイロン掛けもしなければならないと思うと、高耶はいささかうんざりしながらスーツの濡れてしまった部分をハンカチで拭き始めた。
スーツに着られていた入社したての一年ちょっと前の頃に比べると、だいぶ着こなせるようになってきたとは思うが、それでも、まだまだ遠いなと思う。
スーツの良く似合っていたあの男には程遠い。
つい、栗毛色の髪に濃い色合いのスーツを着た男の後姿を思い出してしまい、高耶のハンカチを持った手が止まってしまった。
(忘れる気あるのか、オレは・・・)
もう二年も前に別れた男だというのに。
この季節はこれだから嫌なのだ。
今日のように冷たい秋雨の降る日に別れた男の事を、ふとした拍子に思い出してしまうから。
自分から別れを切り出し、逃げるように離れて行ったというのに、翌年の秋には男の事を想い泣き暮れた。
その時に散々泣き尽くして、もう忘れようと思ったのだが。
二年目の秋になっても、男の影は消えてはくれなかった。
度々高耶の前に現れて、高耶の心をかき乱す。
忘れようと思っても忘れられない。
あの男は、高耶の事を心の底から愛してくれていたと知っているから。
そして、きっと高耶も。

二年前。
まだ大学生で幼かった高耶は、男から向けられる無償の愛が怖くなり、男から逃げた。
11も年上で大人のその男に、そんなに愛してもらう価値が自分にあるのか自信が無くなったから。
こんなにもいい男を、自分なんかが拘束していたらいけないと高耶は思ってしまったのだ。
男と離れた翌年の秋、子供で馬鹿だった自分に高耶はようやく気づいた。
男からの愛を高耶は受け取るばかりで、全く返していなかった事に。
怖くなるはずだ。
高耶は、男の愛情が怖くなったのではなく、愛情を受け取るばかりで返しもしない自分が、いつ男に呆れられて捨てられるのかが怖かったのだ。
だから、捨てられる前にと自分から別れを切り出した。
男の為でもなんでもない。自分の為だった。
ずいぶんと酷い仕打ちをした高耶を、男はそれでもしばらく探してくれていたようだった。
昔のバイト先や大学の数少ない友人が、高耶の連絡先を教えてくれと、男にしつこく聞かれたと教えてくれたから。
別れたその日にバイトも辞め、携帯も、住んでいたアパートすらも変えた高耶を、男はそれでも探してくれていた。
その事を知ったのもこの季節で。
男に対する申し訳ない気持ちと、その愛情の深さに泣き暮れて過ごしていたら、気が付いたらこの季節が嫌いになっていた。
手に持ったハンカチを握り締めて少し俯く。
男に未練があるのは確かだが、あの男の事はもう忘れた方がいい。
あれからもう二年も経っていて、あれほどいい男を放っておく女なんていないだろう。
あの男によく似合う、いい女と付き合っているか、もしくは、もう結婚しているかもしれない。
(本当に馬鹿だな、オレは・・・)
電車がホームに来るというアナウンスを聞きながらふっと自嘲の笑みを浮かべると、高耶は握り潰してしまっていたハンカチをポケットにしまい込んで立ち上がった。
今住んでいるところも、男の職場のすぐ近くだ。
去年の秋、男に恋焦がれた高耶は、男の職場から最寄り駅を挟んで反対側にアパートを探し引っ越した。
もう会えない、会ったら迷惑になると分かっていても、せめて駅という空間だけでも共有したかったから。
でも、男のマンションの最寄り駅ではなく職場の最寄り駅にしたのは、職場の最寄り駅なら、朝、高耶が電車に乗る頃、男もまた電車の中だから。帰りの時間もばらばらな二人だから、偶然にも会う事はないだろうと思い、実際、この一年間会う事は無かった。
でも、そこももう引っ越した方がいい。
男の事をきっぱり忘れて、新しい生活を始めたほうがいい。
高耶はあの日から身動きが取れなくなってしまっている。
男の事を忘れられなくて。
あの別れた日から、高耶の時間は止まったままなのだ。