駅 中編 耳の痛くなるほどの大きなブレーキ音を立てて、雨に濡れた電車がホームに滑り込んでくる。 時刻は夕方。 高耶がいつも帰る時間よりもずっと早い時間。 この時間だと、外回りの男が帰社する時間に重なるかもしれない。 (そんな偶然、そうそうない) そうは思っていても、万が一男に会ってしまったらと思うと少し怖い。 男を見て、自分がみっともなく泣き縋ったりしないか。 男の手の薬指に、男を縛る指輪が嵌っていたりしないか。 自分を見つけた男が、気づかなかったフリをしたりしないか。自分に、憎悪の眼差しを向けたりしないか。 男を手酷く振った身でありながら、そんな事を考える自分が矮小過ぎて可哀想になってくる。 ゆっくりと止まった電車のドアが開いて、高耶は車内に乗り込んだ。 早い時間だからか、制服を着た学生が多い気がする。 そういえば、男と出会ったのは高耶がまだこんな制服を着ていた頃だったな、なんて。 また男の事を思い出して、あまりの自分の男に対する未練の大きさに呆れながら、高耶は空いていた座席に座ると、窓の外を眺めた。 発車メロディを響かせながらドアを閉めた電車がゆっくりと走り出すと、窓に当たった雨が次から次へと流れていく。 (いつまでも止まっているはずがないだろ・・・) 今の高耶とは違い、この雨の雫のように、もう自分の事は留めていないだろう男の心を想って、高耶は小さく溜息を吐いた。 悪い予感ほど当たるというのは本当だった。 電車に乗り込んで数駅行ったところで、高耶は直帰したことを後悔した。 ドアが閉まる音を遠くに聞きながら、ぼんやりと向かいの窓を流れる雨を眺めていた高耶の視界の隅の、混雑し始めた車内で。 細身でスタイリッシュな傘を持った、スーツ姿の長身の男がガラス越しにちらりと映って高耶はハッとした。 咄嗟に、そちらとは反対側に体ごと向ける。 (まさか・・・) 嘘だろう、と思う。 一年もの間、同じ駅を使いながら会った事などなかったのに。 高耶が男との繋がりを全て断ち切ろうと決めた途端にこんな。 そろそろと隣の車両に視線を向けると、そこには見覚えのある傘と黒革の鞄を片手に持ち、もう片手には資料らしき紙を持ってそれに視線を落とし、どこか難しい顔をしている男がいた。 隣の車両の中央付近にあるドアに凭れて立つその男は。 (直江・・・) 見間違うはずがない。直江だ。 その端正な横顔は、高耶の知る頃に比べると少し痩せただろうか。精悍さが増している。 それに、きっちりと整えられた髪のせいだろうか纏う雰囲気が鋭くなっている。 高耶と暮らしていた頃は、穏やかな雰囲気をいつも纏っていたのに。 でも。 (相変わらず、スーツがよく似合ってる) 小さく笑って、高耶は俯いた。 高耶の知る頃とは少し変わっている男に、時の流れを感じてしまった。 二年だ。 あれから二年も経てば、変わって当たり前だ。 高耶だって、いつもジーンズとTシャツにジャンパーだった頃とは変わって、直江と同じスーツを着るようになっている。 (変わったんだ) もう二人は二年も前に終わった関係なのだ。 あんなに酷い事をした自分が、今頃どんな顔をして直江に会えるというのだろう。 会いたいとずっと思っていた直江を見れば、そこにはもう。募る恋心よりも、直江に対する謝罪の気持ちしかなくて。 (ごめん・・・) 滲みそうになる涙を俯いて懸命に堪えるしか、高耶には出来なかった。 二人が降りる駅に電車が滑り込む。 隣の車両にいる直江が降りたのを確認してから、高耶は電車から降りた。 声は掛けない。 人込みの中、足早に改札口へと向かう男の広い背中を、立ち止まってただ見つめるだけ。 ホームに立ち止まり、ぼんやりと改札口の方向を見つめる高耶を、人々が胡乱げに視線を向けるが、高耶の目には今、直江のあの背中しか見えていなかった。 好きだったその背中を見つめながら、高耶は心の中で決心していた。 これで最後にする。 多分、これからアパートに帰ったら泣いてしまって何も手につかない。 涙で腫れた目蓋では明日は仕事に行けないから、明日いろいろと手続きをしてしまおう。 今住んでいるアパートを引き払って、もう二度と偶然にでも男と会わないような、繋がりの全く無い所へと引っ越すのだ。 「なおえ・・・」 改札口を出ていく男の名を小さく呟いて。 その姿が人込みに紛れて見えなくなってから、高耶はようやく歩き出した。 (まだ泣くなよ) そう自分に言い聞かせて、携帯を取り出し握り締めながら、改札口でそれを翳し通り抜ける。 そうして向かう先は、自分のアパートのある方向。 出口から見える外は、まだ冷たい雨が降っていて。 少しだけ迷って、高耶は手に持っている折りたたみ傘を差さずにそのまま外に出た。 濡れたかったから。 濡れて、そうして、頬を伝う涙を誤魔化したかった。 (好きだったんだ・・・) 好きで好きで。 怖くなってしまうほど好きだった。 どうして自分は、直江が向ける愛を真っ向から受け止める事が出来なかったのだろう。 どうして自分は、逃げ出したりしたんだろう。 どうして自分は。 今もまた、あれほど焦がれていた男から逃げるように。 空を見上げて、冷たい雨をその顔に受ける。 多分、一生。この季節は嫌いなままだ。 秋は、男のその柔らかい栗毛色の髪を思い起こさせてしまうから。 鳶色のあの優しい瞳を思い出してしまうから。 冷たい風が吹くと、男のあの暖かさを。 (もう思い出すな・・・ッ) きつく拳を握り締め、顔を打つ雨に目を細める。 ひとつ瞬きをして、目に溜まった涙を雨と一緒に流してしまうと。 高耶は、足を止めることなく思う存分泣ける自分のアパートへと帰っていった。 |
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