駅 後編






散々泣いた翌日。
腫れた目蓋で引越しの手続きを済ませてしまうと、高耶はその週の土日にはそのアパートを引き払い、高耶の職場まで駅一つという所に引っ越した。
その町は直江と関わりのない場所で、男との思い出なんて全くない新しい場所。
(やり直しだ)
止まってしまっていた高耶の時間を動かして、ここで新しく始める。
直江との思い出は胸の奥の方に大事に仕舞って、高耶は高耶の人生を歩かなければならないのだ。
新しく恋人も作って、男の事を忘れるようにしなければ。
未練を断ち切らなければ、高耶はいつまで経っても動けない。進めない。
「よし!」
ぱんぱんと頬を叩いて気合を入れなおすと、高耶はそれほど多くない引越しの荷物の整理を始めた。


秋も深まり空気が冷たくなり、木々もすっかり紅葉が進んではらはらとその色付いた葉を落とすようになり始めた頃。
高耶は、普段のジーンズにジャンパー姿で最寄駅にやってきていた。
駅の近くに買い物に行くついでに、休日のうちにチャージを済ませておこうと考えたからだ。平日の朝は混雑しているし、並ぶのが面倒だったから。
並ぶことなくチャージを済ませると、買い物に行くかと振り返ったところで高耶は息を呑んだ。
(なんで・・・ッ)
改札口の前、背の高いスーツ姿の男がそこを出ようとしている。
高耶が懸命に忘れようとしている男が。
切符を通すために少し俯いたその男が顔を上げる前に、高耶は慌てて近くの柱の影に隠れた。
そうして、そっと伺い見る。
(直江だ・・・)
もう会わないだろうと思っていた男に会えて、高耶の正直な心が高鳴りだす。
頭上の案内掲示を見上げた男が、高耶も向かおうとしていた出口の方向へ向かい出し、高耶は少しだけ迷った後、その後姿に続いた。
人々の間から頭一つ分飛び出た栗毛色の髪が揺れるのを、少し遠くから目を細めて見つめる。
以前見たときはきっちりと整えられていたその髪が、今日は高耶と一緒に過ごした頃と変わらず柔らかそうに揺れているのが嬉しくて。
二年前と変わらないその姿に、高耶の頬が自然と緩む。
出口で立ち止まった直江が、内ポケットから携帯を取り出し誰かにかけるのを見ながら、高耶は柱の影に凭れて溜息をついた。
(忘れられない・・・)
直江を忘れようとわざわざ引越しまでしたのに、二年前と変わらないそんな姿を見せられると、高耶はもう駄目だった。
男に向かう心が止められない。
もう一つだけ溜息を吐くと、高耶は凭れていた柱から身体を起こして男へと向かいだした。
復縁を迫るつもりはない。
直江にはもう、新しい恋人がいるのかもしれないのだから。
ただ二年前、高耶は直江に何も言わずに姿を消してしまったから。
すまない、という謝罪の言葉とそして。
(ありがとう、って言いたい)
あんなに愛してくれてありがとう。
そして、口には出せなくても、自分は今でも直江を愛しているのだと告げたい。
電話の相手は出なかったのか、すぐに携帯を内ポケットにしまった直江が歩き出す。
その後姿に声を掛けようとして、高耶は直江のいたあたりに見覚えのあるパスケースが落ちているのに気が付いた。
小さいそれは、男の定期が入っているもののはずで。
「なお・・・っ」
昔から大事にしていたパスケースを落としたのに気づかずに行ってしまいそうになる直江に、高耶は慌ててそれを拾って男の名を呼ぼうとした。
けれど、それは出来なかった。
パスケースから一枚の写真が滑り落ちたから。
それを視線で追った高耶の目が見開く。
(オ、レ・・・?)
その写真は、高耶を写したものだった。
二人の暮らしたあの部屋で、少しだけ俯いて楽しそうに満面の笑みを浮かべる高耶の横顔。
その頬に今にも触れようとしているその大きな手は見覚えがあるから、その手は直江だとすぐに分かった。
(どうして・・・)
そんな写真、高耶は撮られた覚えがないから、二人の共通の友人である誰かがこっそり撮ったものなのだろう。
それはすぐに分かったが。
どうしてそれを直江が今も持っているのかが分からない。
震える手でその写真を拾い上げて、パスケースごとそっと胸に押し当てる。
もしかして、直江も、なのだろうか。
(オレをまだ愛してくれてる、のか・・・?)
高耶の写真を、あんなに大切にしていたパスケースに入れて今も持ち歩いてくれている。
もう二年も前に別れた高耶の写真を。
それをきつく握り締め、高耶は視線を上げて直江を探した。確かめたかった。
だいぶ離れた所まで行ってしまっている直江を見つけると、走り出す。冷たい空気に晒された高耶の荒い息が白い筋を生み、後ろに流れていく。
「直江・・・ッ!」
先を歩く男の名前を呼ぶと、高耶は直江の腕をぐいと掴んだ。
「た・・・かや、さん・・・?」
驚いた表情を浮かべる直江のその顔をこんなに近くで見たのも、その低い声をこんなに間近で聞いたのも久しぶりで。
高耶は目に浮かびそうになった涙を、目を閉じて男の肩に額を押し付けることで隠した。
そうしてパスケースを握った手もその腕に回してぎゅっと抱きつく。離されないように。
でも、突然そんな事をした高耶に、直江は。
「高耶さん・・・」
昔と変わらない、愛情がたくさん込められていると分かる声で、高耶の名前をそっと呼んでくれた。
愛してくれている。
たったその一声だけで、直江の愛情が今も変わっていないのだと知らされた高耶は。
「お前を・・・愛してるよ、直江・・・」
直江から何度も告げられていながら、一度も返せなかったその言葉を。
二年もかかって、ようやく返す事が出来たのだった。