I want you, you want me 1






夜の街を一歩路地裏に入り込むと、表通りの喧騒が嘘のように静まり返る。
こんな雨の日は特にそうだ。
自らの靴音と雨音だけを耳にしながら駐車場へとやってきた直江は、視界に映ったそれにふと足を止めていた。
(何だ・・・?)
愛車の側。それを背にして凭れ、傘も差さずに座り込んでいる人影がある。
週末の繁華街だ。よくいる酔っ払いかとも思ったが、それにしては随分と若い気がする。
駐車場の出入り口にある街灯を頼りに、ゆっくりと、音を立てないよう近付いていく。
やはり若い男だ。眠っているのだろうか。直江の影が彼の上に掛かるほどに近付いているというのに微動だにしない。瞳も閉じられたままだ。
遠くからでは濡れた黒髪に隠れて分からなかったが、その彼が思いの他端正な顔立ちをしている事に気付く。そして、その顔に喧嘩でもしたのか殴られたような痕を見つけた直江はその眉根を寄せていた。よく見れば衣服もボロボロだ。
面倒事はご免だが、愛車に凭れ掛かられていてはそうも言っていられない。それに、このままここで雨に打たれ続けていれば、風邪をひいてしまうだろう。
「大丈夫ですか・・・?」
手に持っていた傘を差し掛けながらそう問いかける。
すると、髪と同じ色をした睫が揺れ、ゆっくりと開いた。そこから現れた漆黒の瞳にしばし目を奪われる。
「だ、れ・・・?」
痛むのだろう。言葉を発する彼の切れているらしい唇が歪み、雨音に混じり直江の耳に辛うじて届いたその声は掠れて小さかった。
「あなたが凭れているこの車の持ち主ですよ」
直江がそう告げると、背後の車に視線を向けあぁという顔をした彼が、「悪い」と一言そう呟いて立ち上がろうとした。だが、どこか痛むのか途端に顔を顰める。
「動けそうにありませんね。・・・家に来なさい。簡単な手当てくらいは出来ますから」
「いや・・・、いい・・・。知り合いでもないあんたに迷惑は・・・ッ!」
そう言いながら自らの膝に手を置き、再び立ち上がろうとした彼が痛みによろける。咄嗟にその身体を受け止めた直江は、そのあまりの軽さと冷たさに驚いていた。
いくら春になって暖かくなってきたとはいえ、雨が降ればまだまだ寒い。一体どれだけの時間、雨に打たれていたのか。これでは本当に風邪をひいてしまう。
腕の中の強情な彼に小さく溜息を吐いてみせる。
「直江です。直江信綱」
「え・・・?」
「私の名前ですよ。教えたんですから、もう知り合いでしょう?それなら私の家に連れ帰っても文句はありませんよね?」
随分と強引だとは自分でも思ったが、それくらい言わなければ強情な彼は素直に付いて来てくれそうになかった。
少し俯いた彼がははと小さく笑う。痛んだのだろう。切れた唇の端を親指で拭う。
「・・・何だそれ、すげぇ強引」
そう言いながら見上げてくる彼の瞳は澄んでおり、とても綺麗だと直江は思った。
「貴方が強情だからでしょう?人の親切は素直に受けていればいいんですよ」
小さく苦笑して見せながら車の鍵を開け、動けないようだからと、近かった後部座席のドアを開ける。そうして、「乗って下さい」と促したが、彼は躊躇って見せた。
まだ素直になってくれないのかと直江の眉根が僅かに寄る。だが、見上げてきた彼の瞳を見た直江は、すぐにそれを消していた。
その漆黒の瞳が、不安そうに揺れていたのだ。
「オレ、凄ぇ濡れてるし汚れてる・・・」
どうやら遠慮しているらしい彼のその言葉に苦笑する。そんな事は見れば分かる。こちらはそれを承知で彼を連れ帰ろうとしているのだ。
「革のシートですから大丈夫ですよ」
「でも・・・」
まだ躊躇う彼に一つ溜息を吐いて見せる。わざと眉根をくっきりと寄せる。
「・・・さっきも言ったでしょう?人の親切は素直に受けなさい」
低くそう告げながら彼の身体を後部座席に押し込めると、直江は有無を言わさずドアを閉めた。
そうして、閉じた傘を片手に直江も運転席に乗り込む。すると。
「あんたってホンット強引だな・・・」
キーを差し込む直江の背後から、そんな呆れたような声が聞こえてきた。ルームミラー越しに後部座席を見ると、寒いのか自分の身体を抱くようにしてシートに身を沈めている彼がいる。
「貴方も大概強情ですから、お互い様でしょう?」
エンジンを掛けながらそう告げ、寒くないようにと暖房の温度を上げる。随分と身体が冷えていたから、早く帰ってシャワーを浴びさせた方がいいだろう。直江は急いで車を出した。



雨音とエンジン音、それに時折ワイパーの音がする以外、車内は静かだった。
ラジオでも付けた方がいいだろうかと、カーオーディオに手を伸ばしながらルームミラーに視線を向けた直江は、その手を元のハンドルに戻していた。
寒くないようにと暖かくした車内の後部座席。眠ってしまったのか、僅かに顔を傾かせた彼が、濡れた黒髪を頬に張り付かせながらその印象的な瞳を閉じている。
こうして見ると随分と若い。直江はミラー越しに彼を盗み見ながら改めてそう思った。
どう見ても年上な直江に対し砕けた口調で話しかけてくる所を考えても、二十歳そこそこなのではないだろうか。だが、喧嘩らしき怪我をしてはいるが、チンピラという雰囲気ではない。むしろ凛とした雰囲気があり、直江に彼のその見た目よりも年齢を上に思わせた。
彼は何者だろうか。
雨で視界が悪い前方を注視しながら、その視界の片隅に映るミラーの中にいる彼の事を考える。
ふと直江の顔に小さく苦笑が浮かんだ。
何者かも分からない人物を連れ帰ろうとするなど、普段の直江からは考えられない事だ。慎重に慎重を重ねて行動するはずの自分が、随分と無鉄砲な事をしている事に、直江は今更ながらに気付いた。
「・・・あんたさ・・・」
小さな掠れた声が車内に響く。直江はその顔に浮かんでいた苦笑を消した。
「なんですか?」
そう言いながらミラーにチラと視線を向けるが、直江に声を掛けてきた彼は目を閉じたままだった。
「いっつもこんな事してんの・・・?」
直江が見つめるミラーの中、彼の瞳がゆっくりと開く。暗い車内で、その瞳は随分と輝いて見えた。
「こんな事?」
「・・・見ず知らずのオレみたいなのを拾う事」
「あぁ・・・」
先ほど消したばかりの苦笑が、直江の顔に再び浮かぶ。
「・・・しませんよ。貴方が初めてです」
そう告げると、聞いてきたのは彼の方だというのに「ふぅん」と言った彼は、興味を無くしたかのようにその瞳を閉じてしまった。
車内に再び沈黙が訪れる。
それから彼は、直江のマンションに着くまで瞳を閉じたまま、一言も喋ることは無かった。