I want you, you want me 9






フットライトの淡い光がベッド上に身を横たえる直江の横顔を照らしている。
そろそろ朝日が昇り始める時間であるが、遮光率の高いセピア色のカーテンがしっかりと閉め切られているせいだろう。明るいアイボリーで統一されているはずの寝室内は、まるで夜間であるかのように薄暗かった。
柔らかな枕を背に当て、空を見つめる直江から悩ましげな溜息が小さく零れ落ちる。
―――・・・わりぃ。
あの時。
軽く唇を重ねただけの口付けの後、漆黒の瞳を揺らし、視線を伏せる彼から小さく告げられたのは謝罪の言葉だった。
彼が謝る必要などどこにも無い。
何故謝るのかと訊ねる直江に対し、その前髪で顔を覆い隠すように俯く彼から返って来た言葉は「ごめん」という一言のみだった。
受け入れてくれたのは、心を開いてくれたからではなかったのか―――。
彼の心が開かれるのを辛抱強く待っていたはずの直江は、だが、ついに開かれたかと期待したそれが幻像だったと思い知らされたからだろう。頑ななその態度を見て、彼の前だったというのに落胆する自分を抑える事が出来なかった。
失敗したとしか言いようが無い。
いつか彼が心を開いてくれたら―――。
自分勝手なその願いを彼に押し付けるのは間違っているというのに、口付けを受け入れて貰えたからだろうか。欲が出た。
何故心を開いてくれないのかと表情に出してしまった直江を見て、負い目を感じてしまったのだろう。辛そうに眇められた彼の漆黒の瞳が脳裏から離れない。
(・・・何をやってるんだ俺は・・・)
疲れ切っていた彼の心を少しでも癒したい。
自分の元に居る間に少しでも疲れを癒し、そして、出来る事ならこのままずっと彼の側に居させて欲しい。
そう願い、彼の心が開かれていくのを忠犬宜しくじっと待っていたというのに、急いた直江は、僅かに開かれていた彼の心の扉に手を掛けてしまった。
手を伸ばせば届きそうな位置にまで近付いていた彼との距離。
それが、急いた自分の行動によって一気に遠く離れた気がして、激しい後悔に襲われる直江は昨夜は一睡も出来なかった。
さえずり始めた鳥の声を聞く直江の視線がその手元へと落とされる。
(・・・やり直しだ)
いくら後悔してみても今更遅い。
彼との距離が遠く離れてしまったのなら、また少しずつ彼に近付いて行けば良い。
しなやかな彼の髪の手触りを失いたくないなら、努力しなければ。
拳をきつく握り締め、一つ大きく深呼吸する。
そうして決意を新たにした直江は、自らの身体の上に掛けていた布団を退けた。
少し早いが、朝食を作る為だ。
彼のお気に入りにもなったらしいバケットが、遠く離れてしまった彼との距離を少しでも近付けてくれれば良いのだが―――。
そんな事を思いながら寝室を後にし、リビングへとやって来た直江は、だが、朝食を作る為にキッチンへと向かう事は出来なかった。
「・・・?」
未だカーテンが引かれ薄暗いリビングの中央。テーブルの上に、昨夜は無かったはずのメモ紙が置かれている。
彼が置いたのかもしれないと思った次の瞬間、嫌な予感がすると同時に直江の身体が無意識に動いた。テーブル上のメモ紙を勢い良く取った直江は、書かれている内容を確認した途端、来たばかりのリビングを後にし、彼の部屋へと急いで向かう。
彼の所在を確認する為だ。
間に合ってくれという直江の切なる願いは、彼の部屋へと辿り着く間もなく、無残にも砕け散る事となった。
「・・・ッ」
リビングから彼の部屋へと続く廊下の先。突き当たりにある玄関に、あるはずの彼の靴が見当たらない。
その事を認識しつつも諦め切れない直江は、一縷の望みを掛けて彼の部屋へと続く扉を開けた。
だが直江は、彼の姿どころか、彼がこの部屋に居たという痕跡すら見つける事は出来なかった。
昨日と同じ状態を保つベッドに、彼が昨夜の早いうちにこの家を出た事を思い知らされる。
「・・・どうして・・・ッ」
まだそれほど遠くへは行っていないかもしれない。
自分でも彼を見つけ出すのは絶望的だと分かってはいたが、それでも直江は、着の身着のまま自宅を後にする。
じっとなどしていられなかった。
動いていなければ、彼を永遠に失ったかもしれないという現実に押し潰されてしまいそうだった。
陽が昇り始めたばかりの早朝だ。マンションのエントランスを抜け、最寄り駅の方向へと走る直江を包む空気はひんやりと冷たい。
未だ眠りの淵にある住宅街はしんと静まり返っており、全力で走る直江の荒い息遣いだけが響いていた。
あまり詮索はされたくないだろうと、何も聞かなかったのが仇になった。
直江は彼の名前すら知らないのだ。
目の前から居なくなられては、直江に彼を探す術など一切無い。
彼が姿を消した理由なんて分かっている。
直江が焦って事を急いたからだ。
どうしてあの時、彼にキスしてしまったのだろう。
どうしてあの時、心を開いてくれない彼を責めてしまったのだろう。
駅に向かって走る直江の胸に後悔という名の巨大な嵐が渦巻くが、今さら後悔してみてももう遅い。
全力で走る直江の手に握られたままのメモ紙が、くしゃりと微かな音を立てる。
―――ありがとう。
彼が残したメモ紙には、ただそれだけが書かれていた。