I want you, you want me 8






ソファに背を預けた彼が、立てた片膝を引き寄せる。
ゆったりと座る事が出来るところが気に入っている大き目のソファは、彼のお気に入りにもなったらしい。
直江の言いつけをきちんと守り、髪もちゃんと乾かして戻ってきた風呂上りの彼は、喉が渇いていたのだろう。何よりも先にコーラに口を付けた。
「酒は苦手なんだ・・・」
注文したものを殆ど平らげた後、膝に形良い顎を乗せてそう言った彼は、ビール片手に台所から戻った直江に何かを思い出したのか、少し遠い眼差しをしていた。
「ガキの頃に母親が死んで、それから酒乱になった親父に散々殴られてさ」
小さく首を傾げ、コーラの缶を見つめる彼がふと小さく笑う。
「昔は大好きだったはずなのに、気付けば、親父の事が大嫌いになってた。・・・だからかな。酒だけはどうしてもダメなんだ。飲めない」
心境が変わったのだろうか。彼の口から初めて彼の事が語られている。
それを聞く直江は、彼の喋りを邪魔しないよう彼の隣にそっと腰掛けた。
「今でもお父様が嫌い、ですか・・・?」
小さくそう訊ねてみる。すると僅かに俯く彼は、しばらくして「いや」と首を振った。
「親父は母さんを愛してた。母さんの死を受け入れられなかったから、酒に逃げたんだろうと思う。・・・今なら、飲めるかもしれないな・・・」
そう言った彼が、直江が手にするビールの缶に視線を向ける。
「・・・少し飲んでみますか?あなたが未成年でなければ、ですが・・・」
直江が小さく笑みを浮かべそう提案してみると、彼は僅かに躊躇った後、苦笑を浮かべ「そうだな」と頷いた。
「オレ、もう22だぜ?これから先、酒が飲めないと何かとやっていけないだろ」
それを聞いた直江の瞳が僅かに見開かれる。二十歳そこそこだろうとは思っていたが、時折随分と大人びた雰囲気を見せる彼だ。本当に11も年が離れいてるとは思っていなかった。
幼い頃に母親を亡くし、父親に殴られるようになった彼は、それだけ精神的に大人にならざるを得なかったのだろう。
辛い思い出だろうに直江に話してくれた事をみても、彼の父親に対するわだかまりは解け始めているのかもしれない。
ふと笑みを浮かべ、手に持っていたビール缶をテーブルに置く。
「あなたの分、取ってきますね」
そう言って座っていたソファから立ち上がった直江は、台所へと向かい、冷蔵庫から冷えたビールをもう一本取り出した。




酒が飲めないと言っていたのは本当だったのだろう。
飲んだ経験が少ないからか、ビールを数口飲んだだけで、彼はすぐに酔ってしまったようだった。
手に持ったビールに視線を落とす彼の瞳が潤んでいる事に気付いた直江は、あまり減っていない彼のビールをそっと取り上げた。
「・・・返せよ」
途端、彼の強情な一面が出て来て苦笑してしまう。
「無理しないで。もう飲めないんでしょう?」
伸びて来た彼の手からビールを遠ざけながらそう言ったのだが、強情な彼が直江の言葉を素直に聞き分けるはずもなかった。
「無理なんてしてねぇ。返せ」
ムスッとした表情を浮かべた彼が、遠ざけられたビールを求め、直江の方へと身を乗り出してくる。
「ちょ・・・っ、こら。危ないですよ」
元々、直江と彼ではリーチが違うのだ。彼が手を伸ばしても、遠ざけたビールに手が届くはずも無い。
それはすぐに分かりそうなものだったが、酔っているからだろう。ソファに片膝を乗せた彼が、さらに手を伸ばしてくる。
「返せって」
再度そう言う彼が、直江の頭上に掲げられたビール目掛けて華奢なその身体をスッと伸ばす。
風呂上りの石鹸の香りが届く程に近付いた彼の至近距離で見る瞳に視線を奪われ、直江の顔に浮かんでいた苦笑がゆっくりと消えていく。
酔いに潤んでもなお力強い漆黒の瞳は、吸い込まれてしまいそうな程に綺麗だった。
じっと見つめる直江の栗褐色の瞳に気付いた彼が、直江の頭上に掲げられているビールに向けていた視線を下ろす。
視線が絡んだのを機に、しっかりと乾かされた彼の黒髪へゆっくりと差し伸ばされる直江の手。それを、彼が拒む様子は無かった。
彼の耳元。そこへ差し込まれた直江の指先が、彼のしなやかな黒髪を絡め取る。
このまま彼の唇を奪ってしまいたい。
彼を見つめる栗褐色の瞳を僅かに眇める直江は、不意に突き上げて来たそんな衝動に驚き、そして、今にもそれを実行しようとする自分を懸命に律した。
(この人は男だぞ・・・)
そういう事に関して、自分にあまりモラルが無い事は自覚している。だがそれは、相手が女性に限っての事だったはずだ。
見るからに男性である彼に対し劣情を抱いた自分に戸惑うが、直江のその戸惑いすらも軽く凌駕する程の色気が彼には確かにあった。
「・・・なおえ・・・?」
何も言わず見つめ続ける直江に不安になったのだろう。漆黒の瞳を揺らす彼が直江の名を呼ぶ。
囁くように告げられた自分の名と、縋るように見つめてくる漆黒の瞳に劣情を刺激された直江は、次の瞬間、耳元に添えた手で彼を引き寄せ、そのぽってりとした唇にそっと口付けていた。
驚いたのだろう。薄っすらと開けたままの直江の視界で、彼がその瞳を大きく見開く。
直江の胸元に彼の手が置かれ、拒絶するかと思われたその手は、だが、そうはしなかった。
見開かれていた彼の漆黒の瞳が切なく眇められ、ゆっくりと閉じられていく事に気付いた直江の瞳が僅かに見開き、続いて、切なく眇められていく。
受け入れられるとは思っていなかった。
拒絶されるだろうと思っていた。
少しずつ、僅かに綻んでいきながらも頑なだった彼の心。
この時直江は、そんな彼の心が自分に向かって一気に開かれた気がしていた。