雪は聖夜に舞い降りる 4






直江と過ごす予定だったクリスマスイブ当日の夜。
ホワイトタイガー舎屋の職員詰め所内に一人残る高耶は、書き終えたばかりの日誌をパタンと閉じながら、ふと小さく溜息を吐いていた。
そんな高耶の背後。窓から窺える空は、今にも降り出しそうな程にどんよりとした雲で覆われており、傍らに置かれたストーブが無ければ、凍えてしまいそうな程に寒い。
天気予報で言っていた通り、ホワイトクリスマスになるのかもしれない。
ストーブの上に置かれたヤカンから立ち昇る白い湯気を視界の端に捉えながら、そんな事を思う高耶は、同僚が就くはずだった当直を代わってもらってここに居る。
直江に吐いた『急に仕事が入った』という嘘を本当にする為だ。
互いの家が近いという事もあり、万が一に備えて代わってもらった当直であるが、せっかく就いた当直だ。久しぶりに、仔虎たちとたっぷり遊ぶのも良いかもしれない。
―――そろそろ親離れさせる時期だな。
数日前。先輩である同僚から告げられた言葉を思い出した高耶の瞳が、ふと切なく眇められる。
両手に乗るほど小さかった仔虎たちも、日に日に大きくなり、そろそろ親離れさせなければならない時期が来ている。
成獣の群れに戻されるのだ。
いつかは離れなければならないと、仔虎たちの飼育担当になった当初から充分に理解していたつもりだったが、あれほど懐いてくれるとは思っていなかったからだろう。仔虎たちともうすぐ離れなければならない事を知って以降、高耶は堪らない淋しさに襲われていた。
(・・・淋しいのは今だけだ・・・)
そう自分に言い聞かせる高耶は、座っている椅子の背にゆっくりと凭れ掛かる。
いつかは離れなければならないのは仔虎たちだけではない。直江だってそうだ。
直江に恋人が出来れば、高耶が食事を作る必要は無くなる。
半年近くも夕飯を共にして来たのだ。いつか必ず来るだろうその時の事を考えると淋しさが募るが、それも最初のうちだけだろう。
「・・・淋しいのは今だけだ・・・」
細長く溜息を吐きながら天井を仰ぎ見る高耶が、小さく声にも出して自分にそう言い聞かせていた時。
(・・・?)
誰かがやって来たのだろう。トントンと、外へと続く扉から小さくノックする音が聞こえて来た。
上杉動物園の職員ならノックなんてしない。
ノックしたのは部外者である可能性が高いが、この職員詰め所へは、事務所を通らなければ辿り着けない仕組みになっている。
もう遅い時間だが、出入りの業者が来たのかもしれない。
そう思い、少し訝しがりながらも座っていた椅子から立ち上がった高耶は、外へと続く扉の前へと足を進めた。冷たいドアノブに手を掛け、ゆっくりと扉を開ける。
開けた先。
「・・・こんばんは、高耶さん」
出入りの業者だろうという予想に反し、コートを身に纏った直江の姿を見止めた高耶は、その漆黒の瞳を大きく見開いていた。
「・・・な、おえ・・・?」
どうしてここに直江が居るのだろうか。
扉を開けた格好のまま、驚き過ぎて続く言葉が出て来ない高耶を見た直江が、その顔にふと小さく苦笑を浮かべて見せる。
「職場にまで押し掛けてすみません。一人で食べるのも味気ないので、一緒にどうかなと思って・・・」
そう言った直江の鳶色の瞳が落とされ、落とされた先にあったのは、弁当なのだろうか。高そうな風呂敷包み。
「・・・ご迷惑、でしたか・・・?」
しばらくの間の後。小さく首を傾げる直江からそう尋ねられた高耶は、その奥歯をぐっと噛み締めていた。
「誰かと一緒に過ごすんじゃなかったのか」
眉間に軽く皺を寄せる高耶が絞り出すようにそう告げると、それを聞いた直江の顔に小さく苦笑が浮かぶ。
「そんな人は居ないって言ったじゃないですか」
「・・・っ」
直江のその言葉を聞いた瞬間、高耶の中で何かがふつと切れた。頭一つ分背が高い直江を、高耶の力強い漆黒の瞳がギッと睨み上げる。
「でも、オレは見たんだ!綾子さんとオマエが一緒に・・・っ」
直江を見据える高耶が叫ぶようにそう告げた瞬間、直江の鳶色の瞳が大きく見開かれた。
(・・・っ)
それを見た高耶はようやく気付く。
自分がまるで、綾子に嫉妬しているかのような言葉を発した事に。
そうだ。これは紛れも無い嫉妬だ。
綾子だけではない。直江の側に居るのだろうたくさんの女性たちに、高耶は激しく嫉妬している。
直江に近付くな。この男は自分のものだ、と―――。
あまりにも醜過ぎる嫉妬心だ。
自分の中で渦巻く感情に初めて気付き、大きく動揺する高耶は、真っ直ぐに見つめて来る直江から逃れるように視線を逸らす。
すると、そんな高耶を見た直江の顔に、ふと小さく笑みが浮かんだ。
「・・・綾子はただの同僚ですよ、高耶さん」
はっきりとそう告げた直江が、その栗色の髪を冷たい風に靡かせながら、ゆっくりと近付いて来る。
どうすれば良いか分からず、扉の側で立ち尽くす高耶の頭上。舞い降りて来たのは、穢れを知らない真っ白な雪だけではなかった。
「他の誰かじゃない。あなたと過ごしたいから、私はここに来たんです」
直江の囁くような言葉が聞こえると同時に抱き締められた高耶は、その漆黒の瞳を大きく見開く。
そんな高耶の耳元。
「・・・あなたが好きです、高耶さん」
続けられた直江のその言葉は、真冬の寒さも忘れてしまうほど、高耶の耳に熱く響いた。