支えてくれる暖かな手 1






病院の二階にあるリハビリテーション。
一面がガラス張りになっているその部屋は、初夏の日差しが中まで届き明るい。
白を基調とした内装。広々とした空間は開放感があり、耳に微かに届くのは気持ちを落ち着かせてくれるクラシックピアノ。
外は緑が眩しく少々暑そうに思えるが、空調の効いた室内は快適だ。
そんな中、半袖Tシャツとスウェットという動きやすい服装に身を包んだカカシは、その顎から時折汗を滴らせながら、壁に設置されたポールをきつく握り締め、伝い歩いていた。
何の支えも得ずに足を一歩踏み出す事が、こんなにも困難なのだとカカシが知ったのはつい最近だ。
春先の事だった。
出会い頭の交通事故で、カカシは重傷を負った。死んでいてもおかしくない程の大きな事故だったが、カカシは腕の良い医師の手によって奇跡的に一命を取り留めた。
目覚めた時。
全身を痛みが襲い、カカシは生きている事を嫌と言うほど実感させられた。
事故の後遺症で動かなくなった下肢。担当医からは完全に元に戻るのは厳しいだろうと言われている。
生きている事を後悔し掛けた事もあったが、でも今は。生きていて良かったと、心からそう思っている。
動けと命令しても動こうとしない足を懸命に動かし、一歩、また一歩と足を進めていく。
思うように進まない足に気が急こうとした途端、カカシの耳に小さく穏やかな声が聞こえてくる。
「・・・ゆっくり行きましょう。焦らなくていいんです。少しずつ」
その言葉に、カカシは自分でも気付かないうちに詰めていた息をゆっくりと吐いた。内心の焦りをまた悟られたかと、傍らに立つ男性へと視線を向ける。
声と同じく、その顔に穏やかな笑みを浮かべてカカシを見守るその人は、リハビリの補助をしてくれている療法士だ。名をうみのイルカという。
僅かに苦笑して見せたカカシの銀髪が張り付く額から汗が流れ落ちる。それが古傷のある目元に届くその前に、長い黒髪を高く結って出来た尻尾を揺らしたイルカが、カカシの肩に掛けたタオルでそれを拭ってくれる。
「ありがとうございます、イルカ先生」
カカシが笑みを浮かべてそう礼を言うと、イルカは少々困ったような笑みを浮かべた。その鼻頭に横に走った大きな傷痕を人差し指で掻くのは、付き合いが長くなってくるうちに知ったイルカの癖だ。
「・・・何度も言うようですが、俺は療法士で『先生』じゃありませんよ。カカシさん」
どうやら少し照れているらしい。イルカのその表情を見たカカシの顔に、ふと笑みが浮かぶ。
「でも、ここに来る人は皆、あなたの事は『イルカ先生』と呼んでるでしょ?それに、この足の動かし方を教えてくれているんですから。オレにとっては充分『先生』ですよ」
リハビリは体力を必要とする。僅かに息が乱れているから、言葉を綴るのが難しい。
カカシは、汗が滲むその顔に笑みを浮かべてイルカへとそう告げながら、思うように動かず鉛のように感じる身体をポールへと凭れさせた。
それを見たイルカが、一つ笑みを浮かべて見せる。
「・・・今日はおしまいにしましょうか」
「もう、ですか?」
まだもう少し時間が残っていると思うのだが、イルカの腕がカカシの身体へと回され、引き寄せられる。しっかりと支えてくれるイルカの、カカシより少しだけ小さい身体にカカシも腕を回す。
「今日はいつもより長い距離を歩いていますから。身体を休ませる事もリハビリの一つですよ」
イルカと二人三脚のような体勢で、離れた位置にある車椅子へと身体を向ける。その車椅子が、いつもよりもずっと遠い。それに気付いたカカシは、嬉しさから小さく笑みを浮かべた。
「・・・ホントだ。今日は痛みも無くて、身体の調子が良かったからかな。いつもより車椅子が遠いですね」
「いつも以上に頑張っていらっしゃいましたからね。今日もお疲れ様でした」
そう言ったイルカが、カカシへと笑みを向けてくる。外から降り注ぐ明るい日差しと相まって、その笑顔はいつも以上に眩しく見えた。カカシの瞳が柔らかく細められる。
リハビリの辛さも、先ほどまで感じていた身体の疲れも、イルカのこの笑顔一つで吹き飛んでしまった。
車椅子に到着し、イルカの身体から離される。リハビリが終わり、車椅子に座るこの瞬間が少しだけ淋しい。
「・・・そうだ。いい天気ですし、残った時間は車椅子で外を散歩でもしましょうか」
カカシが車椅子にキチンと座った事を確認していたイルカが、不意にそう提案してくる。その言葉が嬉しかったカカシは、側に立つイルカを見上げ、笑みを浮かべて一つ頷いた。




カカシが入院している木の葉総合病院は、腕も施設も評判の良い病院だ。
たくさんの木々が植えられている中庭はバリアフリーになっており、車椅子での散歩も何ら支障はない。
思っていた通り外は少々暑かったが、車椅子を押してくれているイルカが木陰を選んで歩いてくれている。それに、汗の引いた肌を時折撫でる風が心地良かった。
「もう夏ですねぇ」
背後のイルカにそう話し掛けると、イルカは少し苦笑したようだった。カカシのその声から、カカシが夏に苦手意識を持っていることを悟ったらしい。
「夏は苦手ですか?」
そう訊ねられ、カカシも小さく苦笑した。
「少しだけね。暑いのが苦手なんです。それに、日焼けすると肌が赤くなるタイプだから、毎年夏は苦労します」
半袖のTシャツから露出した肌に、時折、チリチリとした太陽の日差しを感じている。腕を擦りながらそう話していると、不意に車椅子が止まり、カカシの頭上からふわりと何かが降ってきた。
「焼けるといけませんから、着てて下さい。俺の上着で申し訳ないんですが・・・」
イルカがいつも羽織っている薄手の上着だ。
それを肩に着せ掛けられ、カカシは傍らに立つイルカへ笑みを向けた。
「ありがと」
そう礼を告げると、イルカは笑みを浮かべて返してくれた。
淡い色をした半袖の制服姿。カカシがイルカのその姿を見るのは初めてだった。
仕事柄か、イルカは極力その素肌を露出しないようにしている。リハビリ中は患者と密着する事が多いイルカだ。中には他人の肌との接触を嫌がる人もいるだろうから、気を遣っているのだろう。
着太りするタイプなのか、適度に日焼けしたその腕は思っていたより細かったが、いつもカカシの身体をしっかりと支えてくれる頼りがいの在る腕だ。
しなやかなその腕を露出させたイルカが背後に回り、再び車椅子を押してくれる。
カカシの銀髪を撫でる風に乗り、イルカの上着からリハビリの時に必ず嗅ぐイルカの匂いがする。太陽の匂いに近いその香りは、カカシの心を落ち着かせてくれるものだ。
「イルカ先生の匂いだ・・・」
上着の襟元を少し引き寄せながら小さくそう呟くと、聞かせるつもりはなかったのにイルカの耳に届いてしまったのか、背後から焦ったような声が聞こえてきた。
「あのっ、それ、もしかして汗臭いですか?」
「ううん。イルカ先生、患者さんと密着するお仕事してるからか、体臭には気を付けてるでしょ?いつも太陽みたいないい匂いがしてて、この匂いを嗅ぐと落ち着きますよ」
背後のイルカを振り返り、瞳を柔らかく細めたカカシがそう言ってみると、イルカの頬がほんのりと染まった。
「その・・・、ありがとう、ございます」
照れたらしいイルカが、カカシから僅かに視線を逸らす。
それにふと笑みを浮かべながら、カカシは視線を前方に戻した。車椅子の背に凭れ、そっと瞳を閉じる。
目蓋の向こうに感じる木漏れ日。耳に聞こえるのは木々が風に揺れる音と、イルカのゆっくりとした足音。それに、髪を撫でる風が心地良い。
生きている事を感謝する瞬間だ。
「風が気持ちいいですね」
不意に聞こえてきたイルカの心地良さそうなその声に、カカシはその瞳を閉じたまま笑みを浮かべた。イルカもカカシと同じ事を感じていたらしい。
「・・・ん、そうだね」
リハビリの時間は既に過ぎてしまっていたが、イルカはカカシの病室に辿り着くまで、ゆっくりとしたその足取りを変える事は無かった。