終わりなき世の始まりに喜びを 1
BLOGの新年小話 いつでもあなたを の続きです。




それ程難しくは無い任務だったのだが、少し期間が長かったからだろうか。
意外と疲れてしまっていたのか、上忍寮にある自室に入った途端ホッとしてしまい、額当てを取り去るカカシは年かなと内心苦笑していた。
肩に掛けていた埃まみれの背嚢を床に下ろし、ふぅと溜息を吐く。そうして部屋を見回すカカシの深蒼の瞳が柔らかく細められる。
久しぶりに帰った自室は、随分と小奇麗になっていた。
(掃除、してくれたんだ・・・)
去年の末、年末年始に任務が入ってしまったカカシが一緒に過ごせないと伝えた際、「空気の入れ替えくらいはしておきますね」と言ってくれていた恋人のイルカは、どうやら大掃除までしてくれたらしい。夕日が差し込む窓硝子が、曇り一つ無い程に綺麗に磨き上げられている。
他にも、綺麗に整えられたベッドだとか、埃一つ落ちていない床だとか。
それでも、棚の中だとか、机の上の物は動かした気配が無い辺り、見掛けに寄らずと言ったら叱られるかもしれないが、細やかな心遣いを見せるイルカらしくて小さく笑ってしまう。
先ほど感じた安堵感。
あれはもしかすると、部屋に残っていたイルカの気配を感じ取ったからなのかもしれない。
カカシの深蒼の瞳が、ふと柔らかさを増す。
早くイルカに会いたい―――。
そう思ったカカシは、まずは叩けば埃が出るのではと思う程に汚れている我が身を綺麗にすべく、こちらも綺麗に掃除されていた風呂場へと急いだ。




夕日が沈み薄暗い中、二本縛りの酒を片手に携え、イルカが住むアパートへと向かう。
受付所で報告書を提出する際、イルカに会えるかもしれないと期待していたのだが、会う事が出来なかったのだ。
まだ早い時間だったにも関わらず、今日はもう帰ったと言われた時はガッカリしたが、カカシが帰還した事は帰還してすぐに式で伝えてあるから、去年交わした呑む約束を果たそうと家で待ってくれているのだろう。
イルカと呑む約束をしていたのは正月だが、松の内を過ぎてようやく戻れた木の葉の里は、もうすっかり日常に戻ってしまっているらしい。
こうして歩いていても、里内のどこにも正月の雰囲気なんて見受けられず、カカシはハァと切ない溜息を吐いていた。口布越しに吐き出された息が白い筋を成す。
イルカと過ごす初めての年末年始を、カカシはかなり楽しみにしていたのだ。
除夜の鐘を聞きながらゆったりと呑んだり、初詣に行ったり。
その後は寝正月、とまでは言わないが、イルカと過ごす甘い時間をそれはそれは楽しみにしていたというのに、カカシ指名の任務が入った事で、それらは全て儚い夢と散ってしまった。
―――じゃあ、カカシさんの取って置きの酒が呑めるのは、カカシさんが戻ってからですね。
随分と前から交わしていた約束がさらに伸びてしまったにも関わらず、イルカは残念そうに笑ってそう言っただけで、文句一つ言わなかった。
新しい年の始まりに二人で呑む酒を、イルカもずっと楽しみにしてくれていたのにだ。
かなりの淋しがり屋のくせに、そうやってカカシの負担にならないようにと気遣うイルカのいじらしさは、カカシを再度恋に堕とすのに充分だった。
出来るだけ早く戻ろうと頑張ってはみたものの、行きも帰りも深い雪がカカシの行く手を阻み、結局、帰還が予定とそれ程変わらなかった時は、イルカと出会う以前の過去の所業を少々振り返って後悔してしまった程だ。
イルカのアパートへと辿り着き、古びた階段を上る。
任務上がりにも関わらず、カカシの足取りが軽いのは、久しぶりにイルカに会える嬉しさからだ。
部屋の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。すると、「はい、ちょっと待って下さいね」と嬉しそうなイルカの声が中から聞こえ、しばらくして目の前の扉が開かれた。
夕飯を作って待ってくれていたのだろう。扉が開かれると同時に美味しそうな匂いがカカシの鼻を擽り、灯りを背負ったイルカの姿が見えると共に、今度は石鹸の良い香りが漂ってくる。
風呂に入ったばかりなのだろうか。いつもと違い、艶やかな黒髪を下ろしたイルカは、浴衣に半纏という任務帰りのカカシには少々刺激の強い姿で出迎えてくれた。
「お帰りなさい、カカシさん。任務お疲れ様でした」
カカシの姿を見止めた途端、嬉しそうな笑みを浮かべたイルカに労わりの言葉を告げられ、カカシの胸がトクンと高鳴る。
「・・・ん。ただいま、イルカ先生」
イルカに伸ばしそうになる手をぐっと堪え、柔らかな笑みを浮かべてそう返すカカシに、イルカが「どうぞ、入って下さい」と促してくれる。
「お邪魔します」
そう言いながらサンダルを脱ぐカカシは、その顔に浮かべている笑みとは裏腹に、内心少々焦っていた。
イルカが動くたび、ふわりふわりと漂ってくる石鹸とイルカの体臭の入り混じった甘い香りが堪らない。
作ってくれたらしい食事だとか、呑む約束をしていた酒だとか。
それらを無視しようとする不埒な手が、先に立って中へと向かうイルカの背中に伸びそうになって困ってしまう。
前を歩くイルカから、再び甘い香りがふわりと漂ってくる。
イルカが使っている石鹸は、どこにでも売られている普通の石鹸だ。鼻が利くカカシは、里内で同じ香りを嗅ぐ事も多い。
だが、この香りをイルカが纏うと、イルカに恋情を抱くカカシだからこそなのかもしれないが、その体臭も相まって堪らなく良い香りに変化する。
額当てを取り去り、口布も引き下げたカカシは、久しぶりに嗅ぐイルカの甘い香りを堪能すべく、すぅと小さく息を吸った。
「・・・イイ匂い・・・」
「え?」
ハァと感慨深く溜息を吐くカカシから、思わず小さな呟きが漏れてしまい、それが聞こえてしまったのだろう。ハッと気付けば、前を歩いていたイルカが背後に居るカカシを振り返っていた。
「あ・・・っと、美味しそうな匂いがするなぁと思って。何か作ってくれたの?」
咄嗟にそう誤魔化したが、嘘は言っていない。イルカの良い香りに混ざり、美味しそうな匂いが漂ってきている。
小さく首を傾げてそう訊ねたカカシに、イルカが面映そうな笑みを浮かべて見せる。
「えっと、その・・・。カカシさんに今年会うのは初めてですから、お正月らしい事を少ししようかなと思って、雑煮を作ってみたんです」
照れ臭そうに鼻頭の傷を掻くイルカからそう言われたカカシの深蒼の瞳が僅かに見開かれ、続いて、愛おしそうに細められる。
イルカのこういう優しい所が好きだ。
約束を反故にされたというのにそれを責める事もせず、それどころか、二人で過ごすはずだった正月を雰囲気だけでも味わおうと準備して待っていてくれる。
「・・・ありがと、イルカ先生」
イルカを見つめる瞳に、胸に溢れる愛しさを込める。そうして小さく笑みを浮かべて礼を告げると、そんなカカシを見たイルカの頬がほんのりと染まった。
見つめるカカシから恥ずかしそうに視線を逸らし、ふると一つ首を振る。
「いえ・・・っ。たいした物は作ってませんし・・・」
礼を言われたのが嬉しかったのだろう。小さく笑みを浮かべて僅かに俯くイルカがそんな事を言う。作ってくれただけでもカカシは充分に嬉しいというのに。
浮かべていた笑みを深くしたカカシは、イルカの側へ歩みを進めた。暖かそうな半纏に包まれたイルカの背に手を添える。
「オレにとっては充分たいした物ですよ。早く食べよ?せっかくの雑煮が冷めちゃう」
イルカがせっかく用意してくれたのだ。気分だけでも正月を味合わなければ勿体無い。
先ほどまでの不埒な考えを僅かに残っていた理性で抑え込んだカカシは、イルカとの正月を雰囲気だけでも堪能すべく、美味しそうな匂いが漂ってくる居間へと足を向けた。