トリック・オア・トリート 前編 満月の夜、イルカが呼び出された場所は森の中だった。 太陽の光が降り注ぐ昼間ならば、清々しい空気が漂っているのだろうその森は、今は濃い血臭に侵され禍々しさすら醸し出す。 そんな中、トンと着地したイルカの視線の先。 地面に拡がっていく血の海の中心に倒れ、イルカにぼんやりと視線を向けてくる暗部姿の男がいる。 見知った顔のその凄惨な姿に、イルカの眉間に皺が寄った。 それともう一人。 「誰だお前!」 虫の息である暗部の喉笛に切っ先を向け、刀を振り上げて今まさにその息を止めようとしていたガタイのいい男が、突然現れたイルカに大声をあげる。 同時に殺気も向けてくるその男をちらと見遣ると、イルカは小さく溜息をついた。 (また何て面倒な時に呼び出してくれたんだ・・・) 里内でも優秀な忍である男が殺されかけているという事は、イルカを睨みつけているこの男はとてつもなく強いのだろう。中忍であるイルカが敵う相手では到底ない。 だが。 「邪魔だなぁ・・・」 びりびりと空気が震えるほどの殺気をぶつけてくるその男に小さくそう呟くと、イルカは片手を上げその掌を男に翳した。 契約の邪魔をされるのは好きではない。それに、イルカの愛する里の人間に危害を加えたこの男を、このまま見過ごすつもりもない。 少しでいい。 ほんの少し、赤子の手をそっと握るように、男の心臓に力を加えるだけでいい。 たったそれだけで、ほら。 ―――繊細な身体を持つ人間は死んでしまう。 呻き声も上げずに倒れた男をもう見ることもせず、イルカは大地へと染み込む大量の赤黒い血痕の中心、死へと向かって漂い始めた男の側へ近寄った。 「ゆ・・・め・・・?」 イルカを見上げ、掠れた微かな声でそう言う男にイルカは内心溜息を吐く。 「・・・あなたですか。俺を呼んだのは」 死にかけているその男はカカシだった。 もうボロボロになってしまっているが、その特徴ある衣装を纏った暗部姿のカカシを見るのは初めてだ。それに、イルカを見上げる左右違う彩光の美しい、その左の瞳を見るのも。 そして、このままではこれで最後になるのだろう。 ひゅう、ひゅうと苦しそうに鳴るカカシの息を聞きながら、イルカはカカシの周りに広がる血の海を見回した。 (出血が多いな・・・) 人間はとても繊細だから、この出血量ではきっとカカシは助からない。 カカシの最期の強い願いがイルカを召喚してしまうなんて、なんて運命なのだろうとイルカは思う。 そして、カカシはとても『運が悪い』とも。 「契約には充分過ぎる血液ですね・・・、こうなっては仕方ない」 焦点のぶれ始めたカカシのその瞳を覗き込み、イルカは契約する為の言葉を綴る。 「召喚されたのですから、あなたの願いを叶えましょう」 イルカを召喚するほどの強い想いを抱えたカカシ。 「ただし。叶える代わりに、あなたの願いが叶った時はあなたの魂を頂きます」 その強い想いを叶えるため、イルカがここに呼ばれた。これはもう運命なのだろう。 この契約で、カカシの魂はいつかイルカのものとなる。 そして、それまでの間イルカはカカシのものとなるのだ。 (一種の結婚だな・・・) 内心苦笑しながら自らのベストの前を寛げると、イルカはカカシの側に膝をついてその手を取った。鋭い鉄の爪を持った手甲をそっと外し、冷たくて青白い、わずかに血のついたその手をイルカの胸元へと持って行く。 「・・・願い事は?」 カカシの手を胸に当て、耳元で小さくそう訊ねたイルカに、カカシの口布に隠れた口元が動いた。 「あ・・・なたと・・・」 イルカの目が少しだけ見開く。 カカシはそれ以上声を出すことは出来なかったけれど、そのたった一言だけでイルカはカカシの願いが何なのか分かってしまった。 (本気だったのか・・・) まさかあれが本気だったとは思わなかった。 「あなたと一生一緒にいたい」 その言葉を、イルカは何度となくカカシから告げられていた。 時には冗談のように、時には真剣な表情で。 「オレを好きになってよ」 「オレだけ愛して欲しいなぁ」 何度も何度も告げられるそれらの言葉に、初めのうちはにこりと笑みを浮かべて穏便に断っていたイルカだったのだが、ここ最近では愛想の笑みすら向けなくなっていた。 カカシの女好きは噂で聞いていたから、何かの気紛れだろうと思っていたし、実際、何人もの女たちから何度もカカシの気紛れだと言われた。 嫉妬にまみれた女たちに言われずとも、カカシのその言葉を本気で捉えていなかったイルカは、最近は笑顔を向けるのも面倒になってきて、徹底的に無視する事で放っておいたのだが。 (まったく・・・) 人間というものは本当に愚かだ。 愚かで、そして。 そんな所もとても愛おしいと思う。 もう殆ど見えていないのだろう。カカシのぼやけた瞳を見つめながら溜息を吐いたイルカは、にっこりと笑みを浮かべた。 「契約成立ですね」 そう告げた途端にイルカの胸元が熱くなり、そこに置かれたカカシの手がぴくりと震えた。 カカシとイルカを繋ぐ鎖がこれで出来上がる。カカシの一生をイルカが共にするという決して外れない鎖。そして、カカシの魂はイルカのものであるという証が二人に刻まれる。 「まだ死んじゃ駄目ですよ?契約したばかりなんですから、死ぬならしっかり願いを叶えてから死んで下さい」 契約してしまえば、主であるカカシの為に強い力が使える。 イルカは握っていた手をカカシの胸へと置き、その手の上に自らの手を重ねると、久々に使う大きな力にどこか高揚感さえ感じながらすっとその黒い瞳を閉じた。 次の瞬間。 イルカが一つ瞬きをした一瞬の間に、カカシの命に関わるほどの傷は全て癒えていた。 しばらく呆然としていたカカシだったが、イルカが手を離し立ち上がったのを見て、ようやくむくりと上体を起こした。 そうして、自分の身体にぺたぺたと触れると。 「凄い・・・」 そうぽつんと呟いた。 続いて、どうして?という視線を向けてくる。 医療忍でもないイルカが、致命傷だったカカシを一瞬で、しかも完全に治療できたのが不思議なのだろう。 そんなカカシに、イルカはふわりと笑みを浮かべた。 血臭漂うこの場にあまりにも相応しくない、愛らしい微笑み。 「俺は『あくま』で、ただの中忍ですから」 内緒ですよ? そう言って、イルカはしぃと人差し指を自分の唇に押し当てた。まるで子供にして見せるように。 それが、二人の始まりだった。 |
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