歪んだ鍵 前編






顔が緩みっぱなしになりそうだった。

居酒屋の個室。胡坐をかいて座り、ゆったりと寛いだ格好で酒を飲むカカシの目の前に、テーブルに頬杖をついて少しうつらうつらとし始めたイルカがいる。
(可愛い・・・)
手に持った杯を傾けながら、そんなイルカを見つめるカカシの顔が、そうと気付かないうちにまた緩み始める。
酒が少し入っただけですぐに頬を染めて、楽しそうにニコニコ笑って。
カカシ先生、カカシ先生と話しかけてくるイルカは、それはそれは可愛らしくて、カカシはイルカの話に相槌を打ちながら、イルカを見つめるその瞳に愛しいという感情が浮かぶのを止められなかった。
イルカから慕われている。
そうでなければ、カカシの誘いに乗ってこうやって一緒に飲んでくれたり、楽しそうに話しかけてくれたりはしないだろう。
それはとても嬉しい事ではあるのだが。
ただ、目の前でこうやってウトウトするくらい信用されているのが少し悲しい。
(伝えたはずなんだけどねぇ・・・)
ひと月程前だっただろうか。
いつものように共に酒を飲んだ帰り、カカシはイルカに告白していた。
「オレとお付き合いして下さい」
カカシのその突然の告白に、イルカは驚いているようだった。
それはそうだろう。
イルカはきっと、カカシの事を友人か何かだと思っていただろうから。
それまで築いてきた友人関係も充分魅力的ではあったのだが、カカシはそれだけでは満足できず、イルカとの触れあいを求めた。
戸惑う表情を浮かべたイルカに、
「・・・あなたを抱きたいんです」
とまで告げたのは、生半可な優しさでカカシの気持ちを受け入れて欲しくなかったから。
イルカに好意を持たれているのは分かっていたが、それが友人の域を超えていない事は、カカシも知っていた。
もし、受け入れてくれるのなら。そこまでの覚悟をして受け入れて欲しかった。
それに、イルカが断りやすいようにとの配慮もあった。
男に抱かれたくないという理由があれば、優しいイルカも断りやすいだろうと思った。
イルカから視線を逸らさず見つめるカカシに、しばらくして返ってきたイルカの答えは、
「・・・考えさせて、下さい」
だった。
その声からも、泣きそうな程に歪んだその顔からも、イルカがカカシの突然の告白に困惑しているのが分かった。
困らせてしまったのは申し訳なかったが、カカシの方もそろそろ限界だったのだ。
イルカと会うたびに募るカカシの想いは、愛しいイルカを危険に晒してしまいそうだったから。
「・・・ん、いいよ。よく考えて」
ふわりと笑みを浮かべてそう言ったカカシに、あからさまにホッとした表情を浮かべて見せたイルカを見て、カカシはイルカに避けられるかもしれないなと思った。
こんな邪な想いを寄せていると分かった男と、これまでのように一緒に飲みに行ったりはしてくれないだろうと。
だが。
その数日後。受付所でカカシがイルカを飲みに誘ってみると、断られるのではというカカシの予想に反して、イルカは全く態度を変える事無く、いつものように嬉しそうな表情を浮かべて乗ってくれた。
その後の居酒屋でも、イルカは以前と変わらない会話と態度だった。
気を使わせたのかもしれないが、イルカは以前と少しも変わらずカカシに接してくれた。
それが、友人でいたいというイルカの答えなのかもしれないとも思ったが、はっきりとそう言われたわけではないし、イルカならきちんと言葉でそう伝えてくれるだろうと思ったカカシは、そんなイルカを急かす事もせず、その事にはもう触れないようにしてイルカからの返事を待つ事にした。
それからひと月。
まだイルカからの返事はない。
カカシを避けず、こうやって一緒に飲んでくれるのは嬉しいが、そろそろ返事が欲しい。
邪な感情を持つカカシの目の前で、無防備にもウトウトとするイルカに勘違いをして、手を伸ばしてしまいそうだった。
(ねぇ、イルカ先生・・・。オレの事、どう思ってるの・・・?)
カカシも少し首を傾げてテーブルに頬杖をつき、イルカを眺める。
イルカの気持ちが分からなかった。


眠ってしまったイルカを背に乗せて居酒屋を出たカカシは、大きな月が輝く空を見上げながら小さく溜息を吐いていた。
(このままお持ち帰りされたら、この人どうするんだろう・・・)
カカシはイルカを抱きたいとはっきり言ったのにも関わらず、そのカカシの目の前で眠ってしまったイルカの、あまりの無防備さに呆れもするのだが。
イルカは、カカシならイルカの意思を無視して手を出したりはしないと信用してくれているのだろう。
だから。
その信用に応える為、カカシは眠るイルカをこのまま自宅にお持ち帰りして、背中に伝わるイルカの熱を布越しではなく直接味わってしまいたい気持ちを抑え、イルカの家へと向かっているのだ。
その足がゆっくりとした足取りになってしまっているのは、許して欲しいと思う。
イルカの返事が、これまでのように友人のままでというものだったら、カカシはイルカの前から姿を消そうと思っていたから。
そうしたら、酔っ払って眠ってしまったイルカをこうやって送ることも無いだろう。
友人にはもう戻れない。
イルカがカカシに友人としての付き合いを求めるのであれば、イルカの身体に触れたいと思うカカシの気持ちは、危険なものでしかない。
そんな危険な男、たとえ自分だったとしても愛しいイルカの側には置けない。
「イルカ先生、起きて。着いたよ」
イルカのアパートに着いて、背後のイルカにそう声を掛けたが、すぅすぅと寝息が聞こえるばかりで起きる様子はなかった。
少し迷ったが、起こすのも可哀想だしとホルスターから千本を取り出して鍵を器用に開けると、カカシはお邪魔しますと背後のイルカに小さく告げて、互いのサンダルを脱ぎ、イルカを背に乗せたまま中に入った。
寝室に続いているらしい襖を開けて、そこに思ったとおりベッドを見つけると、背にいるイルカをそっと下ろして寝かせた。
ベッドに片膝を付いてイルカのベストを脱がせると、カカシはイルカのズボンのポケットを探ってこの家の鍵らしき少し歪んだ鍵を見つけ、郵便受けから投げ込めばいいだろうとそれを取り出した。
「・・・おやすみ、イルカ先生」
可愛らしい表情で眠るイルカに口付けたいのを抑えて小さくそう告げ、さて帰るかとベッドから降りようとしたら、くん、とベストの端が引っ張られた。
起こしてしまっただろうか。
そう思いながら振り返ったカカシの目に、顔を真っ赤にさせ、はっきりと目を開いたイルカが、片肘をつきながら少し上体を起こそうとしている姿が映る。
(え・・・?)
どう見ても寝起きじゃないその表情に、カカシの目が見開いた。
「・・・イル」
「帰らないで、下さい・・・」
そっとイルカの名を呼ぼうとしたカカシの声を遮り、ベストを掴んだままのイルカが、俯きながら小さくそう告げてくる。
「・・・え?」
聞こえてきたその言葉が信じられなくてそう聞き返したカカシを、落としていた視線をそろそろと上げたイルカがそっと見つめてくる。
「・・・帰らないで・・・」
さらに声が小さくなってはいたが、カカシにはその唇の動きではっきりと理解できた。
立ち上がろうとしていた身体をゆっくりとベッドに戻し、イルカの横に腰掛ける。
「・・・それが、イルカ先生の答え・・・?」
イルカの頬にそっと手を伸ばして、そこを指先で撫でながらそう言ったカカシのその言葉に、かぁと赤くなったイルカがカカシを見つめたまま小さくこくんと頷く。
「そう・・・」
イルカの頬から手を離してそっと立ち上がったカカシを、悲しそうな表情を浮かべたイルカが見つめてくる。
そんなイルカに、小さく笑みを浮かべて見せると。
「・・・鍵、掛けてきます」
カカシは寝室から出ながら、背後のイルカにそう告げた。