薄い唇 前編 寒さが厳しい季節になると、受付所にはストーブが設置される。 凍えそうな寒空の下、任務を完遂させて戻ってきた者たちが一番に向かう場所だ。せめて暖かく迎えたいという心遣いなのだろう。 命ぜられれば機械のように働く忍と言えど人間だ。 里に帰還して一番に向かう場所で暖かく迎えられるとホッとする。 血の通わない機械のようだった心と身体が人の暖かさを取り戻し、帰って来たのだと実感するのだ。 受付所に入ってすぐ。 ストーブの上に置かれたヤカンのしゅんしゅんと鳴る音にどこかホッとしながら、後ろ手に扉を閉めていたカカシの深蒼の瞳がふと和らぐ。 カウンターに座る見知った顔に気付いたからだ。 受付所に入ったカカシを見止め、小さく笑みを浮かべて見せてくれたのは、春に知り合って以降、時折呑む仲になっているイルカだ。 イルカの前へ足を進める。 「お疲れ様、イルカ先生。お願いします」 「カカシ先生こそ、寒い中お疲れ様でした。お預かりしますね」 そう言って見上げてくるイルカのその笑みにも、カカシはどこかホッとする。 受け取った報告書をチェックする為にイルカが俯く。 その揺れる尻尾を視界の端に捉えながら、カカシは受付所の壁に掛けられている時計に目を向けた。時刻を確認する。 イルカの背後に見える窓の外では宵闇が迫っている。カカシの思い違いでなければ、イルカはそろそろ交代の時刻ではないだろうか。 「はい。結構ですよ」 聞こえてきたその言葉を合図に、イルカへと視線を戻す。 「ありがと」 笑みを浮かべてそう言いながら、カカシは小さく首を傾げ、片手を口布に覆われた口元へと運んだ。 呑みに行かないかと、仕草でイルカを誘ってみる。 するとイルカは、嬉しそうな笑みを浮かべ、一つ頷いてくれた。 汗を掻く程に暑い日は冷酒。凍えそうな程に寒い日は熱燗―――。 呑みに行く仲になって長くなってきた二人の暗黙の了解だ。 お気に入りの居酒屋の小さな個室。 店員が持って来てくれたばかりの熱い銚子を手に取ったカカシは、肴が置かれたテーブル越し、目の前に座するイルカへ「どうぞ」とそれを差し出した。 「ありがとうございます」 早くもほろ酔い状態になっているらしいイルカが、ほんのりと赤らむその顔に嬉しそうな笑みを浮かべてそれを受ける。 いつもは力強いイルカの漆黒の瞳。 それが、とろんと蕩けてきているのに気付いたカカシは、差し出された小さな猪口になみなみと注ごうとしていた酒を少しだけ控えた。 (そろそろ止めておいた方がいいな・・・) イルカも酒には強い方だが、カカシ程ではない。 そのカカシが少々酔ったと感じているくらいだ。イルカはもうそろそろ止めておかないと、明日に響いてしまうだろう。 熱く燗された酒が余程美味いのか、カカシが注いだ酒をちびりちびりと呑むイルカが、ほぅと溜息を零す。 嬉しそうな笑みを小さく浮かべるイルカを見たカカシの口元にも小さく笑みが浮かぶ。 猪口が空になったのだろう。手酌しようと銚子に伸ばされるイルカの手に気付いたカカシは、イルカよりも先に銚子を取り上げた。 そのままイルカの手の届かないテーブルの端へと置く。 「イルカ先生はもうダメですよ」 「どうしてですか」 酒を奪ったカカシに対し、少々ムッとした表情を向けてくるイルカに苦笑してしまう。 どうやら止めるのが少し遅かったらしい。 酒の席とはいえ、真面目なイルカが上忍であるカカシに対し、こんな子供のような表情を向けるなんて滅多に無い。 かなり酔っている証拠だ。 「結構酔ってるでしょ。明日に響きますよ?」 小さく首を傾げてそう告げると、酔っていてもカカシが心配していると気付いたのだろう。それを聞いたイルカが、その顔に嬉しそうな笑みをヘラリと浮かべた。 「・・・カカシ先生が女の人にモテる理由、分かる気がします」 舌足らずな声でそんな事を言いながら、手に持った空の猪口に視線を落とし、テーブル上に置いた片腕に頬を乗せたイルカの目蓋が、ゆっくりと落ちていく。 どうやら強い眠気に襲われているらしい。それでも抵抗しようとはしているのか、時折ハッとしたように漆黒の睫を揺らすイルカの子供のようなその仕草に、カカシの苦笑が深くなる。 「眠っていいですよ。後で起こしますから」 眠気に抵抗する事が出来なくなったのだろう。カカシのその言葉にイルカがコクンと素直に頷く。 「カカシ先生が恋人になってくれたらいいのになぁ・・・」 目蓋が完全に閉じられる寸前。 イルカの口から独り言のように小さく呟かれたその言葉に、手に持った猪口を口元に運んでいたカカシは、その動きをピタリと止めていた。 カカシの深蒼の瞳が僅かに見開かれる。 (・・・え?) 少々驚いた。 イルカの口からそんな告白じみた言葉が出るとは思っていなかった、というのもあるが、恋人になってくれたらと言われ、何故か嬉しさを感じてしまったのだ。 何故だろうと小さく首を傾げ、自らのざわめく胸の内を探る。そうして。 「・・・っ」 嬉しさを感じた理由が分かってしまったカカシは、思わず、素顔を晒しているその顔を片手で覆い隠していた。 らしくもなく、自らの顔が赤くなるのを感じたからだ。 (・・・ちょっと、ウソでしょ・・・?) 酔っ払いの戯言だ。 思いの他酔っていたイルカだから、もしかすると覚えていないかもしれない戯言。 そんな戯言に、気付いてもいなかった自らの恋心を自覚させられてしまい困惑する。 顔を覆い隠していた手を後頭部に回し、ガシガシと銀髪を掻く。僅かに俯くカカシから小さく溜息が零れ落ちる。 イルカが眠っていてくれて助かった。 動揺している今、顔が赤くなっている理由を訊ねられたら、上手く言い訳出来たかどうか怪しい。 手に持ったままだった猪口をぐいと呷る。 カカシの動揺を余所に、心地良さそうに眠っているイルカに苦笑してしまうが、恋心を自覚した途端、イルカの寝顔が可愛らしく見えてしまうから不思議だ。 カカシの深蒼の瞳が愛おしそうに細められ、薄い唇がふと笑みを形取る。 (・・・覚えてないっていうのはナシですよ?イルカ先生) 気付かせたからには責任を取って貰わなければ。 手に持っていた猪口をテーブルに置く。そのままテーブルに片手を付いたカカシは、ゆっくりと身体を伸ばし、ほんのりと染まるイルカの頬にそっと口付けた。 「・・・恋人にしてくれるの?」 耳元でそう囁いてみるが、深い深い眠りに堕ちてしまっているのだろう。すぅすぅと規則的な呼吸を繰り返すイルカが、その漆黒の瞳を開ける事は無かった。 |
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