薄い唇 中編






引かれたカーテン越しに注がれる太陽の日差しが、イルカの覚醒を促す。
深かった眠りからゆっくりと浮上したイルカをまず襲ったのは、あまり経験した事の無い激しい頭痛だった。
(うー・・・頭いってぇ・・・)
眉間に皺を寄せてそれに耐えながら、まだ開けたくないと主張する目蓋を懸命に抉じ開ける。
激しい頭痛に襲われながらも、寝心地の良過ぎるベッドに違和感を覚えたからだ。
寝乱れた黒髪の間で薄っすらと開かれるイルカの漆黒の瞳。それに最初に映ったのは、古ぼけたアパートにある見慣れた自室の風景ではなかった。
寝惚けていたイルカの瞳がゆっくりと見開かれていく。
(え・・・?)
薄いはずの布団はふかふかと柔らかく、その先には見覚えの無い机。
それから、イルカの首の辺りからすらりと伸びる、色白だが男性だろう逞しい腕と、器用そうな節張った指先。
自分のものではないそれを見て、寝心地の良い見知らぬベッドに寝ているのが自分だけじゃない事を知ったイルカの身体がピシと固まる。
腹の辺りに感じる腕らしき重みは、イルカが枕にしている腕と同じ持ち主のものだろう。
背後からイルカを抱き込む人物が誰なのかは分からないが、忍であるイルカがその気配を全く感じていないという事は、中忍以上の―――。
(・・・もしかして・・・)
そこまで考えて、イルカの脳裏にふと、昨夜一緒に呑んでいたはずの人物が思い浮かんだ。
元暗部に所属し、里一番の忍と謳われる上忍―――はたけカカシ。
イルカは中忍であり、階級の異なる二人だが、呑み仲間と言っても良いだろうか。僭越ではあるが、少なくともイルカは、カカシの事をそう思っている。
もう何度も呑みに行き、そして、カカシから報告書を受け取る事も多いイルカだ。よくよく見れば、節張った色白の指先に見覚えがある気もする。
振り返って確かめたい気持ちはあるのだが、本当にカカシだったらどうしようという思いがそれを邪魔する。
男二人、一つのベッドで、しかもイルカは背後から抱き込まれているのだ。辛うじて衣服は身に纏っているようだが、だからと言って、何も無かったという保証はどこにもない。
背後に居る人物が本当にカカシで、もし何かあったのだとしたら―――。
(なんでこんな事に・・・)
動けるものなら頭を抱えたい。
昨夜、カカシと呑んでいた事は覚えている。だが、酒に呑まれてしまったのだろう。その途中からイルカの記憶はあやふやだ。
ここはどこだとか、背後の人物は誰だとか、一つ布団の中、腕の中に捕らわれて眠っているのは何故だとか、肝心な部分が全く思い出せない。
疲れが溜まっている自覚は確かにあった。
けれど、年だろうか。いくら疲れていたからと言っても、呑んで記憶を無くすなんて事は今まで一度も無く、初めての事に思考が付いていかない。
二日酔いから来ているらしい激しい頭痛もイルカの思考の邪魔をする。
(と、とりあえず・・・)
まだ眠っているらしい背後の人物が起き出さない内に帰ってしまおう。
そう思い、ベッドからそっと抜け出そうとしたイルカだったのだが、その途中で背後から伸びて来た腕の中に再度捕らわれてしまった。
「・・・どこ行くの?イルカ先生」
「・・・っ」
きつく抱き締められるイルカの耳に聞こえてきたのは、少々掠れた低く甘く囁く声。それを聞いたイルカの心臓が一瞬鼓動を止める。
違って欲しいというイルカの願い空しく、その声は間違う事無くカカシのものだ。けれど、こんなにも艶のあるカカシの声をイルカが聞くのは初めてで戸惑ってしまう。
やはり二人の間には何か―――。
「・・・おはよ」
恐る恐る背後を振り返ったイルカの瞳にまず映ったのは、ふと柔らかく細められるカカシの深蒼の瞳。
「お、おはようございます・・・っ」
それを見たイルカの胸が何故かトクンと高鳴り、赤くなったのだろう。頬が熱くなるのを感じたイルカは、カカシへと向き直り、そう挨拶を返しながら、じっと見つめてくるカカシから僅かに視線を逸らした。
(な、なんか・・・っ)
イルカの気のせいだろうか。カカシの纏う雰囲気が随分と甘い気がする。
激しく高鳴る自らの胸に静まれ静まれと念を送っていると、そんなイルカの黒髪へカカシの手がそっと伸ばされた。指先が差し込まれ、優しく梳かれる。
「・・・寝ぐせ」
「・・・っ」
そんな言葉と共に、ふと柔らかさを増すカカシの深蒼の瞳。それを見た瞬間、ただでさえ高鳴っていたイルカの心臓が大きく跳ね上がった。
(ぅわぅわ・・・っ)
何しろイルカには昨夜の記憶が殆ど無いのだ。カカシの醸し出すその雰囲気に、あらぬ想像を掻き立てられ居た堪れなくなる。
それに耐えられなくなったイルカは、この状況を説明してくれるだろうカカシへ、思い切って問い掛ける事にした。
「あの、カカシ先生・・・っ」
「ん?」
イルカの黒髪を梳き続けているカカシが小さく首を傾げる。
「ここってカカシ先生のお宅ですよねっ?どうして俺はここに居るんでしょうかっ」
「・・・・・・」
イルカが一気にそう問い掛けた途端、カカシの手がピタリと動きを止めた。
たっぷりと十秒は間があっただろうか。しばらくしてカカシから、はぁと小さく溜息が零れ落ちる。
「あのね・・・」
イルカの黒髪を梳いていた手を自らの後頭部へと回し、銀髪をガシガシと掻くカカシから説明された事は、イルカから血の気を引かせるのに充分な内容だった。
呑んでいる途中で眠ってしまったイルカを起こしたのだが起きなかった為、良く眠っていて無理に起こすのも可哀想だと思ったカカシが自宅へと連れ帰った事。
それから、ベッドへと寝かせたイルカがカカシの忍服を掴んで離さなかった為、やむなく一緒に眠った事を教えられ、それを聞いたイルカは頭を抱えてしまっていた。
(俺って奴は・・・っ)
穴があったら入りたいとはこの事だ。
上忍であるのに気さくなカカシの優しさに甘えている自覚はあったが、ここまでとは思っていなかった。
「・・・もしかして、何にも覚えてないの・・・?」
ゆっくりと身体を起こしたカカシがそう訊ねてくる。痛む頭を庇いながら起き上がったイルカは、ベッドの上にちょこんと正座しうな垂れた。
滅多に感情を表に出さない事で知られるカカシといえども、迷惑を掛けられた上に、それを忘れられたりしたら怒るだろう。膝の上に置いた手をぎゅっと握り、叱られる覚悟をしてカカシの問いに小さく答える。
「・・・はい・・・」
だが、イルカのその答えに返って来たのは、予想に反し、叱責の言葉ではなかった。
「・・・そう・・・」
叱る気力すら無くす程に呆れられてしまったのだろうか。今度は重苦しい深い溜息がカカシから零れ落ちる。
それを聞いたイルカは慌てた。
「あの・・・っ、ご迷惑をお掛けしてすみません・・・っ」
叫ぶようにそう言いながら、布団に額が付くほどに深々と頭を下げるイルカは、情けない事に泣きそうだった。
今回の事を境に、カカシとの仲が悪くなったらどうしよう。
今にも浮かびそうになる涙を唇を噛み締めて耐えるイルカの耳に、苦笑したのだろう。カカシがふと笑う気配がする。
「・・・謝らなくていいですよ、イルカ先生。迷惑だなんて思ってませんから」
「でも・・・っ」
聞こえてきた優しいその言葉に居た堪れなくなる。急いで顔を上げたイルカは、さらに謝罪の言葉を口にしようとして、だが、それをする事が出来なかった。
カカシの深蒼の瞳に、哀しみの色を見止めたイルカの漆黒の瞳が僅かに見開く。
「今回の事は忘れて下さい。オレも・・・」
その口元に小さく笑みを浮かべたカカシが、そう言いながら深蒼の瞳を切なく眇める。
「オレも忘れますから」
カカシからそう告げられたイルカは何故か、ホッとするどころか、ガンガンと痛む頭以上に自らの胸が激しく痛むのを感じていた。