薄い唇 後編






いつもの店のいつもの座敷。
もう何度も呑みに来ており、いつもなら寛いでいるはずの居酒屋でピンと背筋を伸ばすイルカは、いつもと違い少々緊張していた。
(今日は呑み過ぎないようにしないと・・・っ)
衝撃的な朝を迎えたあの日から、まだそれ程経っていない。
今日は疲れておらず大丈夫だろうとは思うのだが、ここはあの日と同じ居酒屋の、たまたまだろうが同じ座敷。おまけに、一緒に呑んでいる相手はカカシなのだ。緊張するなと言う方が難しい。
今日の夕刻、受付所にやって来たカカシが、いつものように仕草で呑みに行かないかと誘ってくれた時は、了承の言葉をつい、叫ぶように告げたほどに嬉しかった。
あんなに迷惑を掛けたのだ。もう誘って貰えないだろうと思っていただけに、誘って貰えた嬉しさもひとしおだったし、ホッと安堵もした。
いつもの店にやってきて酒が入ってからも、カカシの態度は以前と全く変わらない。
呑み過ぎないようにと少々緊張しているイルカに気付き、気遣ってくれているのだろう。穏やかな笑みを浮かべるカカシは、いつもとは違い、イルカに酒を勧める事はせず、柔らかな口調で他愛ない事を話し掛けてくれている。
あの日の事を境に、カカシとの仲が悪くなるなんて事にならなくて本当に良かった。
嬉しさから口元に小さく浮かんだ笑みを隠すように、酒が僅かに残る猪口をぐいと呷る。そうして、空になった猪口を掌で弄ぶイルカの口元に浮かんでいた笑みがゆっくりと消えていき、漆黒の瞳が僅かに眇められる。
(・・・どうしてだろ・・・)
以前と変わらない態度で接してくれているカカシに安堵している。
そのはずなのに、カカシに誘って貰えた時から、イルカの胸が激しく痛んでいるのは何故だろう。
掌の中にある小さな猪口に視線を囚われているイルカの首が小さく傾ぐ。
胸が痛む理由は分からないが、覚えが無い訳ではない。あの日、カカシから「忘れる」と告げられた時に感じた胸の痛みと同じだ。
「・・・もしかして酔っちゃった?」
少し考え事をしていたからか、テーブルを挟んで正面に座るカカシから、そう声を掛けられハッとする。慌てて顔を上げてみれば、イルカを見つめるカカシの顔に心配そうな表情が微かに浮かんでいた。
「いえっ、大丈夫・・・で・・・す・・・」
急いでふるふると首を振り、そう答えていたイルカの漆黒の瞳が徐々に見開かれていく。
あの日と同じ居酒屋の同じ座敷。
そして、酔ったのかと心配するカカシの深蒼の瞳。
つい最近、見た覚えのある光景だ。それを切っ掛けに、イルカの脳裏に、あの日の出来事が走馬灯のように流れ始める。
赤く染まっているのだろう。顔が徐々に熱くなっていくのを感じたイルカは、心配そうに見つめるカカシから隠すように急いで顔を俯かせた。
(・・・そうだ、俺・・・っ)
上忍であるのに気さくで優しいカカシに心配して貰えて嬉しかったイルカは、あの日あの時、自らの胸の内にあった恋心に初めて気付いた。
けれど同時に、それをカカシに伝えるなんて出来ないとも思った。
階級差がある上に、男同士だ。叶う筈が無い。
伝えてカカシとの仲が壊れてしまうよりは、今の呑み仲間ままで良い。そう思ったはずなのに。
―――カカシ先生が恋人になってくれたらいいのになぁ・・・。
心地良い眠りに堕ちる寸前、イルカの口から零れたのは、そうあって欲しいと願う言葉。
自らの口が発したその言葉も思い出したイルカの顔が一気に青褪める。
「・・・でも、顔色が悪いですよ。そろそろ帰りましょ?」
青褪め、小さく震え始めたイルカを心配してくれたのだろう。そう言ったカカシが立ち上がる。
そうしてイルカへ近付いて来たカカシの忍服を、イルカは俯いたままそっと掴んでいた。
「どうして・・・」
みっとも無い事に声が震えてしまっている。
一つ喉を鳴らしたイルカは、今度は震えたりしないよう腹に力を入れた。
「どうして一緒に呑んでくれるんですか・・・?」
今カカシの顔を見たら、泣いてしまいそうだ。困らせたくなくて俯いたままそう問い掛ける。
「え?」
「『忘れる』って、俺が言った事も忘れるから前のままでいようって事ですか・・・?」
胸が痛むはずだ。
イルカはカカシへ告白に近い言葉を告げたのに、それを『忘れる』と告げられ、実際、無かった事にされたのだろう。以前と同じ態度で接されているのだから。
「・・・思い出したの・・・?」
その言葉に小さく頷くイルカの側に、カカシがゆっくりと膝を付く。
「・・・忘れた方がいいと思ったんです」
そうして告げられたカカシの声が冷たく感じるのはイルカの気のせいだろうか。
「告白じみた事を言うだけ言って、あなたはそれをすっかり忘れてしまった。酔っ払いの戯言だったんだと思うのが自然でしょ?」
それを聞いたイルカの漆黒の瞳が切なく眇められる。カカシの忍服を掴んだままだったイルカの手が、ゆっくりと離れていく。
胸が痛い。
あれは酔った上での戯言なんかじゃない。言えるものならそう言い募りたい。
けれど、酔って告白じみた言葉を告げた挙句、それをすっかり忘れてしまったのはイルカの方なのだ。言えるはずが無い。
唇をきつく噛み締めて俯くイルカの視界が、じわりじわりと浮かぶ涙で揺れ始める。
泣いては駄目だと自分を叱咤するイルカの耳に、呆れられたのだろうか。カカシのハァという溜息が聞こえて来る。だが。
「・・・すみません。意地悪言いました」
溜息に続いて聞こえてきたのは、何故か謝罪の言葉だった。
「・・・え・・・?」
どういう意味だろうかと顔を上げたイルカの涙で揺れる視界で、イルカの瞳に浮かぶ涙を見たカカシの深蒼の瞳が切なく眇められる。
ゆっくりと伸びて来たカカシの指先がイルカの頬へそっと添えられ、そこを優しく撫でられたイルカはその瞳を僅かに見開いていた。
「泣かせてゴメンね。でも・・・」
そう言いながら、イルカの瞳から零れ落ちそうになっている涙を指先でそっと拭うカカシの口元に、ふと小さく苦笑が浮かぶ。
「オレにあなたへの想いを自覚させたくせに、あなたはオレへの想いすら忘れてしまったんです。そりゃ意地悪したくもなりますよ」
イルカの瞳が大きく見開く。
聞いた事が無いくらい優しい声で告げられたカカシのその言葉で、それまで我慢していたイルカの涙が堰を切ったように溢れ出す。
そんなイルカを見て、涙の向こう側に居るカカシが困ったように苦笑を深めた気がするが、今のイルカに涙を止める事なんて出来そうになかった。
せめて、みっともなくなっているだろう泣き顔だけは隠したい。
そう思い、再度俯いたイルカの肩をカカシがそっと抱き寄せてくれる。
「・・・恋人にしてくれるの?」
そうして耳元で告げられたのは、イルカにとって願っても無い言葉。
「・・・はい・・・っ」
カカシのその言葉が嬉しい。忘れてごめんなさい。カカシの事が好き。
言いたい事はいっぱいあったが、勝手にしゃくりあげる声の合間にそう答えるのが精一杯だった。代わりにカカシのベストをきつく掴む。
するとカカシは、礼を言うのはこちらの方だというのに、「ありがと」と囁くような小さな声で礼を言ってくれた。




イルカがカカシの腕の中で目覚めたあの朝。
カカシはイルカに告白する予定で居たらしい。だが、目覚めたイルカは記憶を無くしており、さらには、イルカの中にあったはずの恋心も消えてしまっていた。
忘れられるはずも無かったが、忘れると言った方がいいのだろう。
焦ったように深々と頭を下げるイルカを前にそう思い、その時は「忘れる」という言葉を口にしたが、当初からイルカを諦めるつもりは更々無かったのだと苦笑と共に言われた。
「忘れちゃったのなら、思い出して貰えばいい。また好きになって貰えばいい。そう思ったんです」
イルカに思い出して貰おうと、あの日と同じ居酒屋の同じ座敷を用意し、あの日と同じ料理を注文し、あの日と同じ会話を心掛けたとカカシからそう言われた時、イルカはもう絶対に呑み過ぎないと心に誓い、そうしてカカシへもそれを誓った。すると。
「そうして下さい。イルカ先生は普段も可愛いけど、酔っ払うともっと可愛くなるから」
恋人になった途端、甘い雰囲気を纏わせるカカシからそんな事を言われたイルカは、あの朝に味わった飛び出しそうな程の心臓の高鳴りを再び、今度は永遠に味わう事になったのだった。