愛しき猫 1






イルカの家には、時々猫がやってくる。
毛並みはイルカの髪と同じく漆黒で、瞳は深い深い蒼。
前足の片方が少し悪くて、時々引き摺る。
でも、とても美人、と言っていいのか、イルカが見ても綺麗なメス猫だと思う。
黒猫は不吉だと言われるが、この猫と知り合ってからイルカに何か悪い事が起きた、という事はないから、やはり迷信なのだろう。
そんな美人な黒猫と、イルカは時々一緒に過ごしている。


春になりだいぶ暖かくなって来たと言っても、隙間風の入る台所ではまだまだ寒い。
そんな台所でコトコトとカレイを煮込んで、さて食べるかとそれを盛り付けた皿と味噌汁の椀、それに炊き立ての白飯が入った茶碗を両手に持ち、行儀悪く足で居間へと続くガラス製の引き戸を「よっと」という掛け声と共に開けたところで、イルカは居間に黒い物体を見止めて苦笑した。
(やっぱり来た)
いつの間にやって来ていたのか、卓袱台の側に置かれた薄い座布団の上に黒猫が丸くなって眠っている。
煮付けを作っていた時点で、来そうだなとは思っていたが、既に来ているとは思わなかった。
「・・・お前は本当に鼻がいいなぁ」
卓袱台の側に膝を付き、手を塞いでいる皿をそこに置いて、眠る猫にそう声を掛けると、チラと目を開けた猫が何の事?とでも言う様にイルカに視線を向けてくる。
そんな猫に「魚があるけど、食べるか?」と訊ねながら頭を撫でてやると、途端にゴロゴロと喉を鳴らして可愛らしい声で鳴いてみせる猫に、「はいはい」と苦笑して。
猫の分の皿を台所から持ってきて、出汁を取るために使った煮干と鰹節、それにカレイを少し添えた。
「はい、どうぞ」
猫でも女の子だからと、座布団から降りて行儀良く座って待っていた猫の前に、先に皿を置いてやる。
でも、この猫はどれだけお腹が空いていたとしてもすぐには食べない。
イルカが卓袱台につき、箸を手に頂きますと言うのを待ってから、イルカと一緒に食べ始めるのだ。
美味しそうに煮干を口にする猫を見て、イルカもカレイを口に運びながら目を細める。
いつも一人で食べているから、誰かと一緒に食べるのはとても楽しい。
たとえ、それが人ではなく猫であったとしても。
そして、その猫が、イルカの作る魚料理が目当てだったとしてもだ。


イルカがこの猫と知り合ったのは、雪の舞い散る寒い冬の夜だった。
前足に酷い怪我をしていたこの猫をイルカは拾い、治るまではと面倒をみた。
怪我の事もあったが、雪の降る外にいては動けない猫はすぐにでも死んでしまうだろうと思ったから。
一ヶ月ほどイルカの家にいて、怪我が治ったらふらりと出て行ったからもう来ないだろうと思っていたが、イルカが魚料理をしているとその匂いを嗅ぎつけるのか、月に数回、こうやってふらりとやってくる。
助けてもらったくせに、飯までたかる猫に初めは呆れたイルカだったのだが、毎日はやって来ないところを見ると、猫のくせに遠慮しているのだろう。
そんな奥ゆかしいところのある猫に、元々動物好きなイルカが絆されないわけがなく。
今では飯だけではなく、風呂まで一緒に入る仲である。


ペタリと細めの体に張り付いていた猫の漆黒の毛が、湯気を上げる熱い湯にふわりと浮き上がる。
胸に乗せた猫が心地よさ気に目を細めながら喉を鳴らすのを見て、イルカはふふと笑みを浮かべた。
風呂好きの猫なんて聞いたことが無かったが、以前、あまりにも汚れていた猫を見かねて風呂に入れてみたら、暴れるどころか気持ち良さそうにしているのを見て以来、この猫が来るたびにこうやって風呂に入れている。
「お前、本当に熱い風呂が好きだよなぁ・・・」
猫の肩に湯を掛けながらそう言うと、それにうっとりと目を閉じていた猫が、なぅと、イルカの言葉に答えるかのように一声鳴く。
(分かってるのかもなぁ)
頭のいい猫だと思う。
イルカの言葉を理解しているようなところのある猫に、感心させられることもしばしばだ。
いっその事イルカが飼おうかと思った事もあるが、イルカは時々だが任務に出る身でいつも家にいるわけではないし、この猫もずっとイルカの家に居着いているわけではないから、多分飼われたいとは思っていないのだろう。
だから、時々世話をするだけに止めている。
でも、可愛いとは思う。
こうやって時々でも一緒に飯を食べ、風呂に入れば情も沸くというものだ。
そろそろ上がるかと猫を抱えて風呂を出る。
自分よりも先に、風邪をひいたりしないようにと猫の濡れた体を拭いてやる。
されるがまま、大人しく拭かれている猫に笑みが浮かぶ。
(可愛いなぁ・・・)
拭き終わった猫を脱衣所から外に出してやり、イルカも体を拭き浴衣に着替えて居間へと戻ると、先に戻っていた猫は既に座布団の上で眠りに入っていた。
(今日は泊まるのか・・・)
風呂上りに出て行かないという事は、今日は泊まっていくつもりなのだろう。
猫を横目にビールを取るため台所へと向かいながら、淋しい一人寝をせずに済みそうだと、つい嬉しく思ってしまい、そんな自分にイルカは苦笑した。
冷蔵庫からビールを取り出し居間へと戻る。
ビールを卓袱台に置いて、眠っている猫をそっと抱き上げ座布団に座り、イルカの膝の上に乗せる。
嫌がる事無く膝の上で丸くなり、ゴロゴロと喉を鳴らす猫を撫でてから、イルカはテレビをつけ、ビール片手にそれを見始めた。
時々つれない仕草も見せる猫だが、基本的に人懐っこい。
家に来たときはイルカの後を着いて回るし、イルカがテレビを見ている時にこうやって膝の上に乗せても離れようとしない。
時々泊まったりもするのだが、その時はイルカの布団の上に丸くなって眠るから、もしかすると人肌が恋しいのかもしれない。
(俺もそうなのかもな・・・)
人肌が恋しいのは自分も同じかもしれないとイルカは思う。
一人暮らしが長すぎて、猫に相手してもらって嬉しいと思っている。
時々でも、一緒に過ごす存在がいてくれるのが嬉しい。
この猫もそんなイルカの事を分かっているから、時々様子を見に来てくれているのかもしれない。
長年恋人のいないイルカを、世話している猫にまで心配されているような気がして、内心苦笑してしまった。
飲み干したビールを置き、お気に入りの番組がちょうど終わったテレビを消すと。
膝の上の猫が、あくびをしながらむくりと起き上がった。
イルカの膝の上から降りて一つ伸びをすると、寝室へと続く襖の前に向かう。
そうして、ビールを片付けようと立ち上がったイルカを振り返り、なーとイルカを急かすように鳴くのを見て。
『ほら、あたしはもう眠るんだから。さっさと襖開けてちょうだい』
そんな声が聞こえた気がして、イルカは苦笑してしまった。
「分かった分かった」
襖を開けてやり、イルカは歯磨きをする為に洗面所へと向かって。
明日の準備も済ませて戻ってみると、猫はベッドのど真ん中で丸くなって眠っていた。
「・・・おーい。俺の寝る場所くらい空けておいてくれよー・・・」
小さく声を掛けるが、猫が起きる気配はなく。
仕方ないなと溜息を吐いて、起こさないようにそっと猫を移動させてイルカもベッドに潜り込んだ。
猫がいた辺りがポカポカと暖かい。
春になったとはいえ夜はまだ寒いから、もしかしたら、イルカの為に温めてくれていたのかもしれないと思ったら嬉しくて。
手をそっと伸ばして、暖かい猫の体を撫でた。
暖かいその体を撫でながら、心地よいまどろみに身を浸す。
薄れていく意識の中、こいつが来なくなったら凄く淋しいだろうなと思うほどに、イルカは猫に愛着を持っていた。