始まりの雨 1 カカシがイルカに初めて会ったのは、麗らかな春の日だった。 上忍師としての初任務を終えたその日の午後。 カカシは報告書を提出するため、受付所へと続く道を子供たちと歩いていた。 頭上から降り注ぐ春の暖かい日差しがカカシの眠気を誘う。目の前に広げた愛読書も眠気を覚ますには至らないらしく、頭に入ってこようとしない。 歩きながら眠ってしまいそうな状態だったが、そんなカカシの眠気を覚ましてくれる声があった。 ナルトだ。 道すがらナルトが延々と初任務の愚痴を大声で零し続けていて、それを聞かされているカカシの口布の下では僅かな苦笑がずっと浮かんだままだ。 「あ・・・!」 その声が途切れたと思ったら、少し前を歩いていたナルトの気配が明るいものへと一気に変化した。サスケとサクラの気配も差はあれど同様に。 (ん・・・?) 愛読書の文字を追いながら子供たちの後を歩いていたカカシがそれに気付き、子供たちへと視線を向けようとしたその時。 爽やかな風が、カカシの銀髪をふわりと優しく撫でた。 道に沿い、前方から流れてくるその風がとても心地良かったのを今でも鮮明に覚えている。 「イルカ先生!」 そう叫んだナルトが、小さなその身体を弾ませて走り出す。他の二人もそれに続いた。 子供たちが向かう先。受付所へ向かおうとしていたのか、十字路の角から現れたその人がイルカだった。 ナルトの声に高く結った髪を揺らして立ち止まったイルカが、子供たちへと嬉しそうな笑みを向ける。駆け寄った子供たち一人一人の頭を順番に撫でていく。 暖かそうなその手で撫でられ、年相応の子供らしい笑顔をイルカに見せている子供たちは随分と嬉しそうだ。 ゆっくりと歩み寄りながらそれを眺めていたカカシは、心がほんのりと暖かくなるのを感じ、ふと口元を緩めていた。 口々に初任務の感想を言い始めた子供たち。少し腰を屈め、そんな子供たちの話を苦笑しながら聞いていたイルカが、カカシの視線に気付き、ふわりと笑みを向けてくる。 (え・・・?) その瞬間、カカシはその瞳を僅かに見開いていた。カカシの周囲を、一陣の風がざぁと舞った気がしたのだ。 「カカシ先生・・・、ですよね?はじめまして。この子たちの担任をしていました、うみのイルカといいます」 ナルトを纏わり付かせて近付いてきたイルカが、にこやかな笑みを浮かべてそう挨拶をしてくる。 イルカの背後からカカシへと絶えず流れ込んでくる爽やかな風。銀髪を揺らすその風が心地良い。 心にも心地良い風が流れているのを感じている。奥底に蓄積し、もう一生消えないのだろうと思っていた澱み。それがすっかり消えていた。 「・・・はじめまして、イルカ先生」 カカシはその事に驚きを感じつつも、それは表に出さず、瞳を柔らかく細めてイルカへとそう挨拶を返した。 多少癖のある子供たちが懐いている事を見ても分かる。イルカはとても心優しい人なのだろう。 カカシの心の奥底にこびり付いて取れなかった澱み。それを、イルカは笑顔一つで簡単に取り除いてしまった。 自分にとって大切な人になるのかもしれない。 ナルトに手を引かれ、受付所へと一緒に歩き始めたイルカの背を見つめながら、カカシはふと小さく笑みを浮かべ、そんな予感を抱いた覚えがある。 現上忍師と元担任。 子供たちを介した二人の関係は当初、その程度でしかなかった。 受付所などで時々、イルカに子供たちの様子を聞かれ、それを話して聞かせるくらい。 もう少しイルカとの距離を縮めたい。 そう思う気持ちは、イルカと会話するたびにカカシの中でどんどん膨らんでいた。 上忍師としての任務は心穏やかで居られるが、上忍としての任務はそうはいかない。 過酷な任務のたび、新たに蓄積しようとする心の澱み。それが、イルカと会話するだけで、心に優しく風が吹き込まれ消えていく。 心の澱みを消してくれるイルカにもう少し近付きたい。 そう願うカカシとイルカの距離を急速に縮める切っ掛けをくれたのは、とある傷薬だった。 暗部や上忍の間でも持っている者は少ない高価で貴重な傷薬。 ずっと探していたのだが、それをカカシが探していると知ったイルカがカカシの為にと探してくれ、そして、譲り受けたというそれを、高価な物にも関わらず快く譲ってくれたのだ。 それを貰った時はとても嬉しかった。 イルカがカカシの為に探してくれていた。その事ももちろん嬉しくはあったのだが、傷薬の礼を理由にイルカに近付く切っ掛けが出来た。その事が何よりも嬉しかった。 「イルカ先生、これから飲みに行きませんか?この前の傷薬のお礼に奢りますよ」 上忍としての任務が入っていなかったその日。 カカシは上忍師としての任務を早々に終わらせ、受付所でイルカへと報告書を提出しながら、そろそろ交代の時間だろうイルカを飲みに誘った。 イルカが驚いた表情を浮かべて見上げてくる。 それ程仲が良いわけではない。いくらお礼だからと言っても上忍であるカカシに気後れして、飲みには行ってくれないかもしれない。 イルカを見つめるカカシをそんな不安が襲う。 (お願いだから断らないで・・・) 誘いを断られるのではと心配するのは初めてで、断らないで欲しいと願ったのもそれが初めてだったが、カカシのその願いは最良の形で叶えられた。 「はいっ」 イルカがぱぁと嬉しそうな笑みを満面に浮かべ、カカシの誘いに乗ってくれたのだ。少しも嫌がる素振りを見せずに。 ホッと安堵の溜息を内心吐いていると、イルカが「あ、でも・・・」と、困った表情でそっと見上げてきた。 「ん?」 「あれは頂き物なので、奢ってもらうわけには・・・」 小さく首を傾げたイルカがおずおずとそう告げてくる。それを見たカカシはふと笑みを浮かべていた。 どこからどう見ても男であるイルカに抱く感想では到底なかったのだが、その仕草がとても可愛らしいと思ったのだ。 何故そんな事を思ったのか。その答えはカカシの心の中に存在した。 (あぁ、そうか) その時だ。 その時初めて、カカシはイルカへと恋に堕ちている自分をはっきりと自覚した。 「・・・探してくれた礼ですよ。気にしないで奢られて下さい。ね?」 そう告げるカカシの顔には、自然と柔らかな笑みが浮かんでいた。 |
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