始まりの雨 2 その後、カカシは仕事を終えたイルカを連れ、馴染みの店へと足を運んだ。 隠れ家的な料亭で見た目は普通の屋敷と変わらないのだが、味に定評があり、中でも個室を取るとその支払いは格段に張る。 あまり高いとイルカが困ってしまうだろうとは思ったのだが、それくらいの価値があの傷薬にはあるのだ。 それに、ここには他にない家庭的な暖かさがある。ここなら、イルカに遠慮や気後れを感じさせずに済むのではないかとも思った。 通されたゆったりとした個室。その窓から見える外は、夜の闇にすっかり覆われていた。 中庭に植えられた藤が夜風に吹かれ、揺れているのが見える。 カカシはベストを脱ぎ、テーブルの側に置かれた座布団へと胡坐をかいて座った。額当ても取り去り、脇にそれらを置く。 寛いだ様子を見せるカカシに、テーブルを挟んで向かい側に座ったイルカも倣ってくれる。 互いに少しだけ迷って、二種類あった本日のお勧めをそれぞれ注文し、窓から見える藤が綺麗だとか子供たちの事を話しているうちに、それは運ばれてきた。 そこで、カカシはイルカの観察力の鋭さを知る。 「・・・もしかして、天ぷらが苦手なんですか?」 注文した料理が出揃い、店員が下がった途端、イルカにそう訊ねられたのだ。 カカシが注文した料理の中に苦手な天ぷらが一品だけ含まれており、どうしようかと思っていた所だっただけに驚いた。 しかし、そんな態度は取っていないつもりだったのに。 「・・・よく分かりましたね」 驚きを表に出してそう答えると、「やっぱりそうですか」とイルカは笑った。 「あまり自信は無かったんですけど・・・。天ぷらを見た瞬間、ほんの少しだけ表情が変わられた気がしたので」 それを聞いたカカシは、よく見ているなと思った。 カカシに表情を変えた覚えは全く無い。元来、感情の起伏が少ない方なのだ。 さらには、カカシはまだ口布をしており素顔を晒していない。イルカに見せているのは深い蒼色の右目だけだ。表情が出たとすれば、その右目だろう。 僅かなカカシの表情の変化を捉え、そう判断したイルカの観察力の鋭さに感心していると。 「・・・苦手でしたら、俺が食べてもいいですか?」 高く結った髪を揺らしたイルカが小さく首を傾げ、瞳を僅かに輝かせながらそう訊ねてきた。可愛らしい表情を見せるイルカにふと口元が緩む。 「イルカ先生、天ぷらが好きなの?」 そう訊ねてみると、イルカが恥ずかしそうな笑みを向けてきた。赤くなった頬を指先でかくのはイルカの癖だろうか。 「それ程好きというわけではないんですが・・・。この天ぷら、今が旬の山菜を使っているので食べてみたいなと思って・・・」 見れば、イルカが注文した料理の中に天ぷらは含まれていない。 食べてみたいというイルカの言葉は本当だろう。だが、優しいイルカの事だから、苦手な天ぷらを前に少々困った表情を浮かべたカカシを見て、助け舟を出してくれたのだろうとも思う。 イルカに笑みを浮かべてみせると、カカシは天ぷらが載った小皿を取った。 「食べてもらえるとありがたいですよ。・・・オレが天ぷら苦手っていうのはナルトたちにはナイショね?好き嫌いするなって言ってあるから」 最後の台詞をわざとらしく声を潜めてそう告げ、イルカの前に小皿を置く。 すると、イルカはくつくつと小さく笑い、「はい。ありがとうございます」と礼を言った。 その時までは、イルカはそれ程緊張していなかったように思う。 それが、カカシが食事を食べる為に口布を下ろしたその瞬間から、イルカの態度がどこかぎこちなくなった。 テーブルの上にある、綺麗な皿に盛られ薄く透けるほどによく煮込まれた大根。 それを箸で割り一欠けら口にする。出汁がよく沁みた大根を咀嚼しながら目の前に座るイルカに視線を向けると、視線は合っていないというのに一瞬だけイルカの動きが止まる。 イルカの視線はずっとテーブルの上の料理に落とされたままだ。カカシへは滅多に向けられなくなっていた。 美味しいのだろう。料理を口にするたび顔は綻ぶし、カカシとの会話もそつなく交わしている。だが、どこかぎこちない。 (何だろう・・・) 小さく首を傾げてイルカを観察する。伏せた瞳が少し泳ぐのは、イルカがカカシの視線に気付いている証拠だ。 少し視線を向けるだけでも困った表情を浮かべるイルカが可哀想で、あまり視線を向けないようにしていたのだが、何か気を悪くするような事でもしただろうかと、じっとイルカを見つめていると、イルカの頬が徐々に赤く染まり始めた。 それを見たカカシの首がさらに傾ぐ。 「あの・・・」 イルカがおずおずと声を掛けてくる。視線が少しだけ上げられ、漆黒の瞳がカカシを捉える。 「ん?」 「・・・あまり見ないでもらえますか・・・?」 イルカの瞳に捉えられたのは一瞬で、その瞳はすぐにそんな言葉と共に逸らされてしまった。 それを見たカカシは、不躾に見つめていた事に気を悪くしたかと慌てた。 だが。 「そんな綺麗な顔をした人に見つめられると、もの凄く恥ずかしいし、緊張します・・・」 小さな声でそう続けたイルカが、泣きそうな顔をしてかぁと顔を赤らめるのを見たカカシは、その顔を盛大に綻ばせてしまった。小さく笑ってもしまい、イルカに失礼だと緩んだ口元を慌てて片手で覆い隠す。 ぎこちなかった理由はそれだったのかとホッとすると同時に、見つめられると恥ずかしいと言ったイルカが愛しくてたまらない。 (かわいい) イルカに惹かれている自分を自覚してからというもの、目に映るイルカの仕草や表情が随分と可愛らしく見えて困る。 くつくつと小さく笑っていると、少々唇を尖らせたイルカが非難の視線を向けてくる。 「・・・あぁ。ゴメンなさい。イルカ先生があまりにも可愛くて」 笑みを苦笑に変え、謝罪と正直な感想を言ってみると、イルカがその瞳を大きく見開いた。 「そ・・・ッ!んなことありません・・・っ」 叫ぼうとしたイルカが、カカシが浮かべた柔らかな笑みを見て慌てて顔を俯かせ、徐々に小さくなる声でそう告げてくる。 少しは期待してもいいのかもしれない。 カカシへはもう完全に視線を向けられなくなってしまったらしいイルカ。そんなイルカへと他愛ない事を話しかけながら、カカシはほんのり染まったその頬に淡い期待を抱くのを止められなかった。 その日以降、時々一緒に飲みに行くようになり、かなり近付けていたイルカとの距離。 それが、中忍試験の一件と、その後の大蛇丸による木の葉崩しが原因で一気に遠くなった。 木の葉の里はほぼ壊滅状態。忍の数が絶対的に少なくなった影響で、カカシにはSランク任務のみが言い渡され、日々任務に追われた。 五代目から直接言い渡される任務。イルカには滅多に会えない。 偶然会えたとしても、あの日の言い争いをイルカは気にしているらしく、気まずい空気が流れ、会話らしい会話は出来なかった。 Sランク任務は過酷だ。心の澱みがどんどん溜まっていく。 それを感じながらも、カカシは次から次へと言い渡される任務をただ淡々とこなしていくしかなかった。 |
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