静かな雨 1






アカデミーの中庭には、様々な樹木が植えられている。
まだ枝ばかりの淋しい木が多いが、季節はもうすぐ春になろうとしているのだろう。木々の合間に設置された少し古めかしいベンチに座るカカシの背後では、春を呼ぶ梅の花が咲いていた。
風は冷たいが、太陽の光が降り注ぐこのベンチはポカポカと暖かい。
その暖かくて少し低い日差しを背に受け、自らが作り出す陰の中で愛読書を読んでいたカカシは、近付いてくる気配に気付き、片手に持っていた本をパタンと閉じた。
「すみません!お待たせしました・・・っ」
そう言いながら、その胸に包みを大事そうに抱えて校舎の方から走って来たのは、恋人であるイルカだ。
そんなに焦らなくてもカカシは任務が入らない限りいつまでだって待っていられるというのに、息を切らせて走って来たイルカにふと笑みが浮かぶ。
「それほど待ってはいませんよ。・・・そんなに走らなくても良かったのに」
カカシがそう声を掛けている間も、大きく深呼吸を繰り返し、懸命に息を整えているイルカが少し心配になってくる。
「・・・大丈夫?」
少し身体を倒し、俯くイルカの顔を覗き込むと、カカシの心配そうな表情に気付いたイルカが、僅かに汗が滲むその顔に満面の笑みを浮かべた。
「はいっ、大丈夫です。ちょっとでも早くカカシさんに会いたくて・・・」
まだ少し息が切れてはいたが、綻ぶようなイルカの笑顔とそんな可愛らしい事を言うイルカに、眉間に少し皺が寄っていたカカシの顔にも笑みが浮かんだ。
「ん。オレも早く会いたかったから、走ってきてくれて嬉しいですよ。・・・座って?」
立ったままのイルカに隣を勧めると、「はい」と嬉しそうに頷き、カカシの隣にちょこんと座る。カカシとの間に少しだけ距離を開けて。
イルカとは、付き合い始めてもう二ヵ月近くになる。
それなのに、イルカはまだカカシと一緒に居る事に少し緊張するらしい。イルカのピンと伸びた背筋に、ふと笑みが浮かぶ。
「今日のお弁当は何ですか?」
その緊張を解そうと笑みを浮かべてそう訊ねると、聞かれてようやく思い出したのか、イルカはずっと胸に抱えていた包みを慌てて解き始めた。
「あ・・・っと。今日は、春キャベツが出始めててそれが美味しかったので野菜炒めと、それから、カブの煮物を・・・」
そう説明しながら蓋を開けたイルカの弁当を覗き込む。
彩りも考えてあるのだろう。綺麗に並んだ弁当の中身はどれも美味しそうだ。
「・・・今日も交換していい?」
少し首を傾げてそうお願いする。すると。
「・・・今日のお弁当は何ですか?」
先ほどカカシが訊ねた台詞そのままに、イルカがその瞳をキラキラと輝かせながらそう訊ねてきた。
「如月の仕出し弁当ですよ」
如月と聞いて、イルカがぱぁと顔を綻ばせる。その表情を見たカカシの顔にも笑みが浮かぶ。
美味しいと有名な所だから喜んでくれるのではと思い買って来たのだが、どうやらイルカのお気に入りだったらしい。
「イルカ先生好きなの?」
「はいっ、大好きです!」
カカシの問いに勢い良く返事を返すイルカが可愛らしい。
「それじゃあ、交換」
そう言って隣に置いておいた仕出し弁当を差し出すと、イルカは恥ずかしそうにしながらも、一つ頷いてカカシの膝の上にイルカ手作りの弁当をそっと乗せてくれた。


アカデミーの中庭の一角。
少し入った場所にあるこのベンチは、周りからは見えない位置にある。
人目を気にせず口布を下ろして弁当を食べられ、イルカと二人きりの甘い時間を過ごせるこの場所はカカシのお気に入りだ。
恋人であるイルカとこうやって弁当の交換をして一緒に食べるのは、カカシの任務が入っていない時だけ。
大蛇丸による木の葉崩しから約半年。だいぶ落ち着いたとはいえ、カカシの任務は未だ引っ切り無しに入っている。
ようやくイルカと付き合い始めたというのに、忙しくてイルカと一緒に居られる時間がなかなか取れないのが悲しい。
そう思っていたのはカカシだけではなかったらしく、ある時イルカから、時間がある時で構わないから昼休みに弁当を一緒に食べないかと誘われた。
それ以来、任務が入っていない時は必ず。イルカに一緒に食べられますよと式を飛ばし、カカシは仕出し弁当を、イルカは手作りの弁当をそれぞれ持参して、アカデミーの中庭で一緒に食べるようになった。
弁当を交換して欲しいと言い出したのはカカシの方からだ。
イルカの弁当はとても美味しそうに見え、実際、少し食べさせて貰ったそれはとても美味しかったから。
今日の弁当だって、どれを食べてもとても美味しい。
丁寧に角を取ってあるカブの煮物を一口食べると、口の中にカブの甘さが拡がる。目一杯カブの旨味が引き出されているそれに、カカシの目元が綻ぶ。
「凄く美味しい」
綻んだ顔のまま隣に座るイルカへとそう告げると、仕出し弁当を美味しそうに食べていたイルカは恥ずかしそうに、でも、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。このお弁当もすっごく美味しいです」
昼休みという短い時間ではあるが、イルカと過ごすこの時間は、カカシにとって、とても貴重で幸せな時間だ。
次は何を食べようか迷っているらしいイルカを、瞳を眇めて見つめる。
美味しい弁当を食べ、暖かい日差しを背中に浴び、隣には愛しいイルカ。
(・・・幸せだ)
そんな事を考える自分に内心苦笑する。
たったこれだけでも幸せを感じてしまうくらい、カカシはイルカに会えていないのだ。
任務続きで、カカシがイルカと会えるのは受付所か昼休みの短い時間だ。良くて、時々飲みに行く程度。
たまに休みを貰う事があってもイルカの休みと重なる事はなく、恋人らしい触れ合いは今日まで殆ど出来ていない。
カカシの最近の悩みだ。
こうやってイルカと過ごしている今も充分幸せではあるのだが、願わくば、もう少しイルカとの甘い時間が欲しいとカカシは思う。
イルカが里芋の煮物を一口食べる。
唇に付いた里芋の欠片。それに気付いたイルカが指先で唇を拭うその仕草に、つい、視線を奪われてしまう。
視線に気付いたイルカが、ふとカカシに顔を向ける。
ゆっくりと。拒否してもいいですよという速さで顔を近づけていく。
(キス、してもいい・・・?)
視線でそう訊ねるカカシに気付いたのだろう。イルカは、その手に箸を持ったまま、首筋まで一気にかぁと真っ赤にさせた。
互いの唇が触れるまであと少し。イルカの震える睫が伏せられる。
(かわいい・・・)
恥ずかしがってはいても、拒否しようとはしないイルカが愛しい。
ちゅっと軽く口付ける。
「・・・ココも付いてた」
唇の端をトントンと指先で突いてそう言い訳して、カカシはイルカを見つめる瞳にたくさんの愛しさを込めた。
キスはたくさんしている。
付き合い始めてから今日まで、会うたびに掠め取るカカシのキスを、イルカは恥ずかしそうにしながらも受け入れてくれている。そんなイルカに、カカシの欲求は膨らんでいくばかりだ。
そろそろキス以上の事をしたい。
そんな事を考えながら、もう一度イルカにキスしようとしていたカカシだったのだが、頭上から聞こえてきた召集の合図に、その途中でガックリとうな垂れてしまった。
(いいところで・・・)
邪魔が入ったと恨めしく思いながら空を見上げていると、そのカカシの頬に暖かいものがそっと触れた。
ん?とイルカに視線を戻してみると、俺は何もしてませんとでも言うように、カカシに背を向けているイルカがいて苦笑してしまう。
どうやらイルカからキスしてくれたらしい。イルカの耳の先からうなじまで真っ赤に染まっている。
そんなに真っ赤になるくらいの恥ずかしがり屋なのに、イルカからキスしてくれたのが嬉しい。イルカの背を見つめるカカシの瞳がふわりと柔らかく緩む。
(ココ・・・)
イルカの背には傷跡があるのだと聞いた事がある。
この背にあるその傷跡が見たい。
そう思いながらその背にそっと触れ、立ち上がる。
「時間切れだ。お弁当美味しかった。・・・また、ね?」
背中越しにそう告げながらイルカの頬に口付けると、イルカは少し淋しそうな笑みを浮かべて振り返り、「はい」と頷いた。