静かな雨 2 三月に入ると、一雨ごとに寒さが緩んでいくようだった。 その日の任務を早々に終える事が出来たカカシは、イルカを飲みに誘おうと受付所へと向かっていた。 低い太陽が、廊下を歩くカカシの横顔を照らす。 久しぶりにイルカとの時間が長く取れそうだ。 そんな事を思いながら受付所に続く廊下を歩いていたカカシは、前方からやってくる愛しい気配に気付き、口布に隠されたその頬を緩めた。 「イルカ先生」 手に持った資料らしきものに視線を落として歩いていたイルカが、カカシのその声にふと顔を上げる。 カカシを見止めた途端、ぱぁと綻ぶような笑顔を見せるイルカに、緩んでいたカカシの頬がさらに緩んでしまう。 「お疲れ様です、カカシさん。任務、もう終わったんですか?」 「うん。今日は早く上がれたから、イルカ先生を飲みに誘おうかと思って」 近寄ってきたイルカへカカシがそう告げた途端、それまで嬉しそうだったイルカの顔から笑みが消えた。 「あ・・・っと、すみません。実はこれから任務が入ってて・・・」 心から残念だと思ってくれているのだろう。イルカの下がった眉尻と、元気を無くしたその声にふと苦笑する。 「任務じゃ仕方ありませんよ。・・・土の国まで行くの?結構大変な任務?」 イルカが手に持っている資料。チラと伺い見た限り、土の国までのルート表だ。 木の葉の里がある火の国から土の国までは、余程の事がない限り、一般人も使う街道を辿る事が多い。 ルート表に書かれているルートは、一般には知られていない、木の葉の忍だけが知るルートだ。 特に最短ルートの場合。それは、緊急時や敵に追われている際に使用される。 それを見ているという事は、緊急か危険な任務なのだろうか。 ふと心配になったカカシがそう訊ねてみると、イルカは少し困惑した表情を浮かべた。 「いえ。書簡配達なのでそれ程大変ではないんですけど・・・」 「けど、何?」 「その・・・、指名、されたんです。依頼主に」 指名と聞いて、カカシの眉間に僅かに皺が寄った。 (どうしてイルカ先生に・・・) カカシなら分かる。各国に名が知れ渡っているカカシは、カカシ指名の任務が入る事も多いからだ。 「届け先が、昔、三代目の外遊に付き添った際にお会いした事のある方なので、その関係だとは思うんですが・・・」 「誰に届けるの?」 カカシのその問いに、イルカは曖昧な笑みを浮かべた。その顔を見て思い出す。 「・・・あぁ、そっか」 任務には守秘義務がある。イルカを心配する余り、カカシはその事をすっかり忘れていた。 イルカの事が余程大事らしい。長く戦地に身を置き、骨にまで沁みているはずの忍の心得すら忘れてしまっていた自分に苦笑する。 「ゴメンね・・・?困らせちゃいましたね」 上忍という他の模範とならなければならない立場にあるというのに、イルカの前ではその立場すら忘れ掛けてしまう自分が少し面映い。 照れ隠しに自らの銀髪をかきながらそう謝ると、イルカは慌てたように首を振った。 「いえっ、その。・・・心配して下さったんですよね?嬉しいです・・・」 そう言ってはにかんだ笑みを浮かべるイルカに、カカシもふと笑みが浮かぶ。 だが。 (何だ・・・?) 先ほどから、カカシの胸にチリチリと引っかかっているものがある。 嫌な予感と呼ばれるそれは、戦地を渡り歩いてきたカカシを今まで助けてくれていたものだ。 その感覚を気のせいにしない方がいい事は、何度も命拾いをしたカカシが一番良く分かっている。 土の国は火の国と友好関係にある。書簡の配達だけなら、それ程危険はないはずだ。 だが、イルカ指名というのが気になる。それに、イルカもルートを確認している事から、その任務に多少の不安を感じているのだろう。 笑みを消し、難しい顔をして考え込み始めたカカシを見て、イルカが「大丈夫ですよ」と笑みを向けてくる。 「書簡配達だけですから、すぐに終わりますし」 イルカのその言葉に、笑みを見せてあげたい。任務前のイルカの不安を増すような事はしたくないのだが。 「・・・少し心配です」 カカシはそう言って手甲に覆われた手を伸ばし、イルカの温もりを確かめるようにその頬にそっと添えた。 心配だった。 本当は少しどころじゃない。イルカに何かあったりしたら。そう思っただけで、カカシの胸はこんなにも冷えてしまう。 「あの・・・っ」 眉根を寄せ、イルカをじっと見つめたまま頬を撫でるカカシの手をイルカが掴む。 「終わったら・・・。火の国に戻ったらすぐ、式を飛ばしてもいいですか・・・?」 「え・・・?」 規則では、任務中に私的な式を飛ばすことは禁じられている。 真面目なイルカから、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。 「駄目・・・ですか?」 おずおずとそう尋ねてくるイルカが愛しい。心配するカカシの事を思ってそう言ってくれたのだと分かるから。 イルカに握られている手にきゅっと力を込め握り返す。 「・・・ううん。ありがと。・・・誰にもナイショね?」 口元を緩めながら声を潜めてそう告げると、イルカはこちらも潜めた声で「はい」と笑みを見せてくれた。 滅多に外れない嫌な予感。 それが当たりませんようにと願った事は多々あるが、今回程そう思った事はない。 「イルカ先生が火の国に入るまででいい。・・・頼んだよ」 カカシのその声に一つ頷いて、忍犬が一匹、その足元から消える。 任務へと向かうイルカと別れた直後、カカシはイルカが土の国での任務の間、イルカをそれとなく護衛する為、忍犬を一匹呼び出していた。 何もなければそれでいい。 カカシの取り越し苦労になればいい。 遠ざかっていくイルカの気配を愛おしく感じながら、カカシは胸を覆っていく嫌な予感にきつく眉根を寄せた。 * カカシがイルカからの式を受け取ったのは、それから二日後の夕刻。カカシが任務を終え、里へ帰還した直後だった。 『火の国に入りました。もうすぐ戻ります』 水色の羽根を持った小鳥が届けた文。短い文だったが、受付所で見慣れたイルカの丁寧に書かれた字だ。 それを読んだカカシはイルカの無事に安堵するどころか、一気にざわめき出した胸に居ても立っても居られなくなった。 嫌な予感がカカシへと警鐘を鳴らす。早く早くと。 「コレお願い!」 任務に同行していた仲間に報告書を託し、踵を返してさっき潜ったばかりの大門を走り抜ける。 そうしながら、カカシは素早く印を組み忍犬を呼び出した。 土の国への最短ルートを選んで走るカカシの周りに、ボボンッと煙を上げて七匹の忍犬が現れる。 「何があった!」 「イルカ先生に付けたアイツが戻って来ないッ。イルカ先生の匂いを追って!」 カカシの後を付いて来ながらそう訊ねてくるパックンにそう告げ、カカシは忍犬たちが方々へと飛び去るのを目の端に捕らえながら再度印を組んだ。 煙を上げて現れた赤い羽根を持つ小鳥は、里への緊急連絡用の式だ。 「上忍はたけカカシ、緊急外出許可を申請する!土の国へ向かった中忍うみのイルカに異変!」 頭上を飛ぶ小鳥に、叫ぶようにそう告げる。里の方向へスィと飛んでいく小鳥をもう見ることもせず、カカシは足にチャクラを集中させた。 しきりに警鐘を鳴らす嫌な予感。イルカに付けた忍犬が戻って来ない事が、カカシのその予感に信憑性をもたらした。 イルカが無事に任務を終え火の国に入ったのなら、役目を終えたと戻って来るはずの忍犬が戻って来ない。 カカシへと届けられたイルカの文は短かったが、危険な印象はどこにも見受けられなかった。 それなのに忍犬が戻って来ていないという事は、これから何かが起こる可能性があると忍犬が判断したのだ。 いや、もしかしたら。 今まさに、イルカの身に何かが起こっているのかもしれない。 土の国での任務を無事に終え、火の国に入ったはずのイルカ。そのイルカに付けた忍犬が、戻れない状況にあるのだとしたら。 そう想像した途端、一気に冷える胸。それにグッと奥歯を噛み締めながら、カカシは足を付いた木の枝を全力で蹴った。 大きく跳躍したカカシの耳に、ひゅうひゅうと鳴る風の音に混じり見つけたという忍犬の遠吠えが微かに聞こえてくる。 (そっちか・・・ッ) それを聞いたカカシは、遠吠えのした方向へと足を向けた。 |
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