明けぬ夜 14 早朝の山は、涼しいを通り越して少し寒さを感じる程だった。 山麓に広がるススキ野原を眺めながら、イルカと手を繋ぎ歩く。 淋しくて堪らないのだろう。下がった肩と、天を向いたままの尻尾。それから、口数の少ないイルカに小さく苦笑する。 そんな風に淋しがってくれているのが少し嬉しいと言ったら、イルカはまた泣いてしまうのだろう。 俯いたままのイルカをそっと伺ってみる。 昨夜、枯れてしまうのではないかと思う程に泣いたイルカの目元は、今も真っ赤なままだ。 「・・・イルカ先生」 カカシの小さな呼び掛けに、イルカがゆっくりと顔を上げる。 「すぐに会いに行くから。そんな顔しないで・・・?」 イルカを見つめるその瞳を切なく眇めながらそう告げると、きゅっと眉根を寄せたイルカがその唇をむぅと尖らせた。 「カカシさんは狡いし酷いです・・・っ」 そうやって泣くのを我慢しているらしいイルカに小さく詰られ、カカシはイルカの手を握る力を少し強めた。 昨夜もたくさん詰られた。気持ちを再度疑われもした。泣きながらどうしてと叫ぶイルカに根気強くカカシの想いを伝え、必ず会いに行くからと約束し、泣き疲れたイルカが束の間の眠りに落ちたのは空が明るくなり始めた頃だった。 「ん。ゴメンね・・・?」 小さく首を傾げてそう謝るカカシは昨夜、イルカを抱かなかった。 イルカを宥めるのは、それが手っ取り早いと分かってはいた。イルカもそうやって宥められるものだと思っていただろう。だが、カカシはどうしても、それをするわけにはいかなかったのだ。 一度、伽を求められたと勘違いしていたイルカだ。 里に戻った後、いつ戻るか分からないカカシを一人待つ間に、やはりあれは伽だったのではないかと不安になったりしないよう、泣きながら縋ってくるイルカを抱いてしまいたいのを懸命に堪え、カカシは口付けるだけに押し留めた。 その代わり、カカシは胸の中に溢れる想いをたくさんの言葉で伝えた。 イルカの笛の音に救われた事、笑顔が好きな事、仕草が可愛らしいと思っている事。子供たちの為にと一生懸命な所は好きだが少し嫉妬するし、心配だという事も。 色々な事を話しながら日付が変わっても、カカシは今日が誕生日である事は伝えなかった。 祝って欲しい気持ちはあったが、別れが余計に辛くなりそうだったカカシは、伝える事を止めたのだ。 他にも話したい事や訊ねたい事はたくさんあったが、イルカと一緒に居られる夜は短かった。 夜明けと同時にイルカを迎えにやってきた部下の部隊と共に山を下り、途中まで見送ろうと、こうして手を繋ぎ一緒に歩いているのだが、帰したくない思いでいっぱいになってしまっている。 (仕方ないよねぇ・・・) 少し横に視線を滑らせれば、心から愛しいと思う人が、その唇を尖らせて帰りたくないと淋しそうな顔をして拗ねているのだ。 そんな可愛らしいイルカを帰したくないと思うのは、仕方の無い事だろう。 やはり抱いてしまえば良かっただろうかと僅かに後悔しながら、それまで離す事の無かったイルカの手をゆっくりと離す。 途端に、今にも泣き出しそうな程に淋しそうな表情を浮かべるイルカに苦笑する。 「元気で。里で待ってて?」 そう言いながら、カカシは手甲に覆われたその手をイルカの頬に伸ばした。宥めるようにその頬をそっと擽る。 「・・・俺はっ!気が短い方なんです!」 泣きそうなのだろう。そう言ったイルカが、カカシから顔を隠すように俯く。 「いつまでもは待ちませんからね・・・っ」 その言葉に、カカシはその顔に浮かべていた苦笑を深めていた。早く帰ってきて欲しいと暗にそう願うイルカが愛しい。 「大丈夫。そんなに待たせたりはしませんよ」 そう告げながら、カカシは先を歩いている部下の部隊に背を向けた。イルカの腕を引き寄せながら口布を引き下ろし、その唇にそっと口付ける。 「すぐに会いに行くから」 すぐ側で囁くように告げたカカシのその言葉に、耐えられなくなったのだろう。イルカが涙を溢れさせる。忍服の袖で何度もそれを拭いながら、何度も頷く。 「泣かないの。・・・またね、イルカ先生」 そんなイルカに瞳を切なく眇めながら口布を引き上げたカカシは、イルカの前を塞いでいた身体を退け道を開けた。 「はい・・・っ」 きつく唇を噛んだイルカが、あぜ道を一歩踏み出す。カカシに背を向けて歩き出す。 秋色に染まるススキ野原を、もう振り返る事無く歩いていくイルカの背。 それを見送るカカシの足元では、秋を告げる曼珠沙華の花がいくつも風に揺れていた。 * 復興が進んだ木の葉の里は、すっかり以前の落ち着きを取り戻したらしい。 カカシは、綺麗に耕された畑のあぜ道に咲く曼珠沙華の花を眺めながら、あの大きなケヤキの木の在る神社へと向かっていた。 秋祭りの練習が行われているのだろう。遠くから微かに聞こえてくる相変わらず綺麗な旋律を響かせている笛の音が懐かしい。 イルカにもうすぐ会えると思うと心が躍るが、カカシには一つ不安があった。 (一年だぞ・・・) あの後すぐ、篭城していた大名が降伏してくれたお陰で、あの任務は早々に終わらせる事が出来た。だが、人使いの荒い綱手から次から次へと任務を言い渡され、カカシはすぐに戻ると約束したにも関わらず、里に戻るのに一年も掛かってしまったのだ。 イルカは待ってくれているだろうか。 不安を胸に抱えながら、神社へと続く階段を上っていく。 赤く染まり始めている大きなケヤキの木が徐々に見え始め、階段を上りきったところで、カカシはその足を止めていた。 拝殿前に造られた舞台上に、懐かしいイルカの後ろ姿がある。 少し痩せただろうか。ピンと伸ばした背をカカシに向けて座り、舞手と共に笛を奏でているイルカへとゆっくりと歩み寄る。 舞手や周囲の人間が近付くカカシに気付く。 (しー。騒がないでね・・・) カカシは小さく笑みを浮かべると、その人差し指を口布越しに唇に当て、騒がないよう仕草で願った。 練習の邪魔をしたくない。それに、もう少しイルカの笛の音を聞いていたかった。 舞台の袖に腕を置き、イルカの真後ろでイルカの笛の音を堪能する。 閉じ込められる事の無い音が、秋の高い空に拡がっていく。それが堪らなく心地良い。 心洗われるその音色がゆっくりと消えていき、イルカが掲げていた笛を下ろしたのを確認したカカシは、その背後からそっと声を掛けた。 「相変わらず素晴らしい笛の音ですね」 「・・・ッ!」 カカシのその声に、大きく背を揺らしたイルカが慌てた様子で振り返る。背後に居るカカシを見止めた途端、驚いた表情を浮かべたイルカに不安が募るが、イルカに会えた嬉しさの方が勝った。 「・・・ただいま、イルカ先生」 その瞳を愛しさから眇めながらそう告げたカカシの言葉に、イルカがきゅっと泣きそうな表情を浮かべる。背後のカカシへゆっくりと向き直る。そうして。 「・・・おかえりなさい・・・っ」 震える声でそう応えてくれ、懸命に浮かべて見せてくれたその笑みは、それはそれは嬉しそうなものだった。 どうやらイルカは一年も待たせたカカシを、変わらず待っていてくれたらしい。 溢れる愛しさに、堪らず舞台袖からイルカへと両手を差し伸ばす。おいでと仕草で示すカカシに、イルカが躊躇う事無く立ち上がる。 「カカシさん・・・っ」 舞台の上からカカシの腕の中へと、その瞳から涙を溢れさせ始めたイルカが飛び込んでくる。それをしっかりと抱き止めたカカシは、暖かいその身体をきつく抱き締めていた。 (やっと・・・っ) やっとイルカが本物の恋人になってくれた。ようやくこの手にする事が出来た。これからはずっと一緒に居られる。 一年も離れていたのだ。いっぱい話したい事はあるが、とりあえず。 去年は伝える事の出来なかったカカシの誕生日が、今日だという事から伝えよう。 イルカはきっと、驚いた表情を浮かべた後、嬉しそうに笑って祝ってくれるに違いない。 腕の中に閉じ込めていたイルカの身体を少しだけ離し、涙に揺れるその漆黒の瞳を見つめる。 「あのね、イルカ先生・・・」 内緒話でもするように小さく小さく告げたカカシのその言葉に、イルカは思った通りの反応を返し、そして。 「おめでとうございます・・・っ」 目尻に涙を浮かべてはいたが、今までカカシが見た中で一番の笑顔で祝ってくれた。 |
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