明けぬ夜 13






本陣の奥。
そこに張られた自テントにカカシが向かってみると、そこは、イルカを腕に抱いて眠っていた頃と少しも変わっていなかった。
イルカが結界と幻術で、敵忍や火の手から守ってくれたのだと聞いている。
その事を嬉しく思いながら、灯りが点されていないテント内にゆっくりと入る。
イルカは水浴びにでも行っているのだろう。その姿は無い。
少し迷って、テント奥の簡易ベッドに腰掛ける。そうして額当てを取り去ったカカシは、それをテーブルへと置きながら、イルカと幾つもの夜を過ごしたテント内をゆっくりと見回した。
水浴びの後に食べるつもりなのだろうか。机の上には、二人分の食事が残されたままだ。
その中に、イルカが美味しそうに食べていた煮物があるのに気付いたカカシは、口布を引き下ろしたその顔にふと小さく笑みを浮かべていた。
伝えられない恋心を抱えて辛くはあったが、イルカと過ごした夜はどれも穏やかで、とても幸せだった。
そっと瞳を閉じ、イルカと過ごした時を思い浮かべながら、イルカが戻るのを待つ。
しばらくして、カカシの閉じていた目蓋がぴくりと動いた。テントに近付いてくるその気配はイルカのものだ。
ゆっくりと深蒼の瞳を開いたカカシの目の前で、テントの前扉が開く。
「・・・っ!」
俯きがちに入ってきたイルカが、テント奥の簡易ベッドに座るカカシを見止めた途端、驚いたのだろう。その身体を震わせた。
大きく見開いた漆黒の瞳でカカシを見つめたまま、何も言わず、動こうともしないイルカに小さく苦笑する。
「・・・怖がらないで。あなたに話があって来ただけなんです」
怖がらせないよう静かな声でそう言いながら、カカシはイルカを見つめるその瞳を切なく眇めていた。
「・・・あの時は、怖がらせてゴメンね・・・?」
小さく首を傾げてそう謝ると、それを聞いてハッと我に返ったらしいイルカが、急いでふるふると首を振った。
「あれは・・・っ」
緊張しているのか、イルカの声が僅かに掠れている。それに一つ喉を鳴らしたイルカが、ゆっくりと息を吐き出しながら再度口を開く。
「・・・確かに、あの時は怖くなってカカシさんを拒絶しました。でも・・・っ」
そう言ったイルカが、カカシをひたと見つめてくる。その眉をきゅっと泣きそうな程に顰める。
「カカシさんに避けられると分かってたら、拒絶なんてしませんでした・・・っ」
イルカのその言葉に、カカシはイルカを見つめるその瞳を大きく見開いていた。
その漆黒の瞳にじわりと涙を浮かべたイルカが、カカシを責めるようにきつく睨んでくる。
「どうしてもって・・・っ、恋人役を続けろって命令したのはカカシさんじゃないですか!それなのに、どうして俺を避けるんですか・・・っ。俺が伽を拒絶したからですか?だったら、もう拒絶なんてしません!伽役だって俺が・・・ッ!」
イルカの口から最後の言葉が出た途端、カカシはそれまで腰掛けていたベッドから急いで立ち上がっていた。イルカに歩み寄り、その身体をきつく抱き締める。
「俺が・・・っ」
「それ以上は言わなくていい・・・っ」
そうしてカカシはイルカの耳元で低くそう告げ、辛そうにしながらも、さらに続けようとするイルカの言葉を止めた。
カカシに避けられるくらいなら、あんなに嫌悪していた伽の相手だってすると言うイルカに、あの夜以来、イルカがどれだけ胸を痛めていたのか分かってしまった。
カカシが避けた事で、イルカは勘違いしてしまったのだろう。恋人役を続けろと命令したくせに自テントに戻って来ないカカシは、伽を拒絶したイルカではなく、他の誰かと共に夜を過ごしているのではないかと。
イルカのこれは、間違う事無く嫉妬だ。
居もしないカカシの伽の相手に対し、イルカは今、激しい嫉妬心を覗かせている。気持ちが伴わない情交は嫌だろうに、伽役だって自分がすると、辛そうにしながらも言ってしまう程に。
嫉妬してくれたという嬉しさよりも、申し訳なさが先に立った。
イルカに、伽役でも構わないとそんな悲しい事を言わせてしまったのはカカシだ。
カカシの胸に抱える恋心を、イルカは知らない。それはそうだろう。カカシは、イルカにだけは知られないよう恋心をひた隠しにしてきたのだ。
あの時だって、カカシは恋心を伝える事をしなかった。
伝えた所で抱きたいだけの言い訳にしか聞こえないなんて、それは、イルカの恋心を信じられなかったカカシの弱さから出た詭弁だ。
言い訳だと思われても、それを覆すだけの言葉や態度で示せばいい。
怖がらせた事を謝り、自分も好きなのだと伝え、その言葉を信じてくれないのであれば信じてもらえるまで伝えれば良かったのだ。
この胸に溢れる恋心は、いくら言葉にしても伝えきれない程にイルカへと向かって叫んでいたのだから、あの時、カカシがそれを伝える事をしてれば、イルカはこんなにも辛い思いをせずに済んだ。
「・・・イルカ先生。オレは、あなたに伽の相手をして貰うつもりはありません」
伽を断られると思ったのだろう。カカシのその言葉に、腕の中で大きく震えるイルカへと囁く。それまで伝えられなかった恋心を、そのたった一言に込める。
「あなたを抱くのなら、伽の相手としてじゃなく、本物の恋人として抱きたい」
「・・・っ」
イルカの身体を抱く力を強めながら告げたカカシの低いその言葉に、滲ませた情欲の色を敏感に感じ取ったのだろう。イルカが息を呑む。
「オレがどれだけあなたに恋焦がれてきたか、あなたは知らないでしょ?」
そんなイルカに小さく笑みを浮かべてそう告げたカカシの言葉に、腕の中のイルカがゆっくりと顔を上げる。
大きく見開いた漆黒の瞳に涙を滲ませたその顔が言っている。信じられないと。
思ったとおり、信じてくれないらしいイルカに苦笑する。その目尻から今にも零れそうになっている涙を、そっと伸ばした指先で優しく拭う。
そのまま、その手をイルカの額当てに伸ばしてそれを取ったカカシは、そこから現れたイルカの額にそっと口付けた。
「・・・あの時、ココにキスされてもイヤじゃないって首を振ったあなたに、オレの鉄壁だったはずの理性が軽く吹き飛んだくらい、オレはあなたの事が好きなんです」
その言葉で、あの時のカカシの口付けの激しさを思い出したのだろう。イルカの顔がかぁと羞恥に染まる。
無理矢理押え付けられたという恐怖は思い出していないらしいイルカに少しホッとする。
愛しさから瞳を眇めながら、カカシはその漆黒の瞳をそっと覗き込んだ。漆黒の瞳に映り込むカカシの顔が涙で揺れている。それを見ながら、イルカへと静かに告げる。
「命令までして恋人役を続けて貰ったのは、あなたを伽から守りたかったのと、あなたの恋人役を誰にも譲りたくなかったから。あなたを避けていた間も、他の誰かを抱いたりはしてませんよ」
「あ・・・」
あの命令に隠されていた意味を伝えた事でようやく信じてくれたのか、イルカの顔から疑心の色が消える。
「・・・信じてくれた?」
柔らかな笑みを浮かべ、小さく首を傾げてイルカを伺うカカシのその問いに、イルカがその顔をくしゃりと歪めながら小さく頷いてくれる。それは一度ではなく、何度も何度も。
そんなイルカを優しく抱き寄せ、宥めるように背中を撫でる。
イルカと気持ちを通じ合わせる事が出来て良かった。腕の中に閉じ込めたイルカの温もりが懐かしくて愛しい。けれど。
その瞳をきつく閉じたカカシの、イルカを抱く腕が強められる。
(手放したくない・・・っ)
心を通じ合わせてしまったからこそ、これから告げなければならない帰還命令が辛い。
明日の朝には、イルカはカカシの手の中から離れていってしまう。
イルカを帰したくない。帰還命令なんて告げたくない。
胸の中ではイルカを手離したくない思いで嵐が吹き荒れていたが、カカシはどこまでも忍だった。
小さく諦めの溜息を吐く。
そうしてカカシは、ゆっくりと瞳を開け、抱き締めていたイルカの身体をそっと離した。身を引き剥がされるような胸の痛みに、僅かに瞳を眇める。
泣いてしまったのが恥ずかしいのだろう。視線を少し逸らしているイルカから一歩下がる。
「・・・うみのイルカ中忍」
イルカの名を呼ぶその声に、それまでの甘さは一切滲ませなかった。感情を押し殺さなければ、告げられそうにもなかった。
カカシの硬いその声に、イルカが不思議そうな視線を向けてくる。
「アカデミー再開の為、明日付けで今回の任を解任。里への帰還命令が出ました」
「・・・ッ!」
イルカが大きく息を呑み、その瞳を見開く。


眠るイルカを腕に抱きながら明けぬ夜を望んだ事は幾夜とあるが、カカシは、今夜ほどそれを望んだ事はなかった。