きっとまた手を繋ぐ 1






上忍待機所に置かれたソファの一角。
そこにゆったりと腰掛け、組んだ足の上で広げた愛読書に視線を落とすカカシの丸い背を、晩冬の柔らかな日差しが照らしている。
空調設備が整えられている上忍待機所ではあるが、窓の外は雨が降れば雪に変わるのではと思われる程に冷たい風が吹き荒んでいるのだ。つい先ほど暗部としての任務から帰還し、身体の芯まで冷え切っていた身としては、柔らかいとはいえ、背に注がれる暖かな日差しがありがたかった。
夕刻が近付き徐々に傾いていく太陽の日差し。それを心行くまで味わいながら次の頁を捲る。
「・・・そろそろ時間じゃねぇのか」
そのカカシの隣。少し離れた場所で煙草の紫煙を燻らせるアスマから不意に声を掛けられるも、カカシは愛読書から視線を上げようとはしなかった。
「まだだよ。交代まではもう少し時間がある」
もう何度も目にした好きなフレーズ。それを眺めながらそう答えるカカシの前、淹れたばかりの珈琲を片手にソファに腰掛ける紅が、納得したというようにふと小さく笑う。
「珍しくここに居ると思っていたら、イルカ先生を待っているのね」
紅のその言葉を受け、笑ったのだろう。アスマの気配も柔らかく変化する。
「あぁ、忠犬宜しくな」
それを聞いたカカシの口布の下、ふと小さく笑みが零れ落ちる。
暗部に属していた頃、カカシの事を鋭い爪と牙を隠し持つ野生の狼のようだと評したのはアスマではなかっただろうか。
狼から犬へと変わったらしい自分が少し面映いが、悪い気はしない。
カカシを変えたのは、伴侶であり愛妻でもあるイルカだ。そのイルカの忠犬と評されるのは誇らしさすら覚えた。
キリの良い所まで読み終えたのを機に、手にしていた愛読書をパタンと閉じる。
「そ。エライでしょ?」
そうして座っていたソファから立ち上がるカカシが、愛読書を腰のポーチへと仕舞いながらそう告げると、口布をしていても締りの無い顔をしている事が窺えたのだろう。盛大な溜息と共にカカシから視線を逸らす二人は、揃って辟易したような表情を浮かべて見せた。
そんな二人へひらひらと片手を振って見せながら待機所を後にし、カカシは足取りも軽く愛妻が居る受付所へと向かう。
手先がかじかんでしまいそうな程に空気が冷たいが、春はもうすぐそこまでやって来ているのだろう。受付所へと続く廊下の窓。そこから見える中庭では梅の花が見事に咲き綻んでいる。
春はイルカが好きな季節であるが、カカシにとってもかけがえの無い季節だ。
二十年近く遠くから見守る事しか出来なかったイルカの側に、ようやく寄り添う事が出来た春がまたやって来る。
二人で積み重ねていく年月が嬉しい。深蒼の瞳をふと和らげるカカシは、その口布の下、小さく笑みを浮かべながら愛妻が居る受付所の扉を開けた。




夜の帳が下りた窓の外は一段と冷え込んでいたが、二人で暮らす家の寝室内は春のように暖かかった。
窓際に置かれたベッドの上。
眠くなって来ているのだろう。カカシの腕の中でカカシの手を玩ぶイルカの手先がぽかぽかと温かい。
「・・・オレの手に何か付いてる?」
ふと小さく笑みを浮かべるカカシが囁くようにそう訊ねてみると、手元に落とされていたイルカの視線がようやく上がった。ふるふると首を振ったイルカの黒髪が僅かに乱れ落ち、互いの額が付きそうな程に近い至近距離。黒髪の間から真っ直ぐに見つめて来るイルカの曇りを知らない漆黒の瞳に囚われる。
「大きいなぁと思って」
小さく笑みを浮かべるイルカから僅かに掠れた声でそう告げられ、イルカの綺麗な瞳に束の間見惚れていたカカシは微かに苦笑する。
手が大きいと言うイルカであるが、カカシの手はイルカの手とそれ程変わらない。
アカデミー教師であるイルカだ。カカシの手と比較した対象はイルカの手ではなく、背丈が二人の腰程しかないアカデミーの子供たちの手なのだろう。
イルカに囚われている手をそっと抜き取り、カカシは乱れ落ちたイルカの黒髪を撫で上げる。
アカデミー教師という仕事に誇りを持ち、遣り甲斐を感じているイルカの口から語られる事は、自然と子供たちの話題が多い。
聡明なイルカから語られる話には学ぶ事も多く、飽きる事など決して無いカカシであるが、子供たちの話題だけはどうしても苦手だと、カカシがそう思い始めたのはいつからだっただろうか。
「・・・明日も早いんでしょ?そろそろ寝なきゃ。ね・・・?」
子供たちの話題へと続きそうなイルカの話をそれとなく遮り、カカシはイルカへ眠るよう促す。
話を遮られたとは思わなかったのだろう。小さく頷いたイルカの印象的な瞳が素直に閉じられ、内心ホッとするカカシはその深蒼の瞳を僅かに眇めていた。
―――・・・イルカが子供を欲しがっていると考えた事は無いのか。
二人が伴侶となって数年。イルカの子供を諦め切れないご意見番の二人から、つい先日問われた言葉だ。
どこから聞いたのか、イルカが幼い頃から銀髪の主を神様と呼び慕っていた事を引き合いに出したご意見番の二人は、カカシがイルカの神様に対する思慕の念を利用して近付き、カカシ様などと呼ばせ、イルカに家事一切を押し付けているとも言った。
確かに、イルカの神様に対する思慕の念を利用して近付いたのは否定しない。
上忍師となるべく、上忍としての任務にも就くようにと火影から命ぜられた時。銀髪の主を探し求めていたイルカの前に姿を晒せると知ったカカシは、自らの銀髪がイルカに近付く切っ掛けになるだろうと期待した。
そうして期待通りイルカに近付く事が出来た訳だが、父であるサクモだとばかり思っていたイルカの神様が自分だったのは嬉しい誤算だった。
イルカの神様は自分だ。
本人であるイルカからそう言われたのだ。カカシがイルカの神様である事は明白だが、幼い頃に助けられた感謝と恩義の念からだろうか。神様はイルカの中で絶対的な存在になっている。それはカカシも同様だ。
だからなのかは分からないが、イルカはカカシが家事を手伝う事をあまり良しとしない。その全てを自分一人で完璧にこなそうとする。
カカシも可能な限り手伝ってはいるものの、任務に追われる事の多いカカシが出来る事など微々たるものだ。
ご意見番の二人からイルカに家事一切を押し付けていると言われた時、イルカの負担の大きさに気付いたカカシは、咄嗟にそれを否定する事が出来なかった。
黙り込んだカカシに手応えを感じたのだろう。ご意見番の二人はさらに、畳み掛けるようにカカシを糾弾した。
―――・・・イルカが子供を欲しがっていると考えた事は無いのか。
考えないはずがない。
イルカは、高じてアカデミー教師になった程の子供好きだ。イルカの口から子供たちの事が楽しそうに語られるたび、自分の子供が欲しいのではないかと常々考えている。
―――イルカからその機会を奪っているのはお前じゃぞ、カカシ。
イルカとの幸せな時を過ごしながらも、心の隅にずっと潜んでいた闇。
ご意見番の二人から告げられたその言葉でそれを刺激され、カカシの心は一気に不安という闇に覆い尽くされた。
もし。
もし、イルカの心の中に銀髪の神様という存在が居なければ、二人はどうなっていただろう。
もし、別の出会い方をしていたら、イルカは最初から自分を好意的な目で見てくれただろうか。
好きになり、自分とでは子を成せないと分かった上で、それでも伴侶になってくれただろうか―――。
(・・・バカな事を)
架空を想像し不安になるなど愚の骨頂だ。
だが、不安に覆い尽くされたカカシの心が、その架空を否定してくれない。
不安を取り除くには、イルカに訊ねるのが一番早いと分かっている。けれど、子供が欲しいかとイルカに訊ねるのは堪らなく怖かった。
少しでも躊躇いの色が浮かんだなら、イルカに子供を与えてやれない自分がイルカの側に居る事は出来ないからだ。
出来る事ならこのままずっと側に居て、自分の手でイルカを幸せにしたい。
(・・・イルカ先生・・・)
深い眠りに堕ちたのだろう。規則的な呼吸を繰り返すイルカの黒髪をそっと撫でるカカシは、だが、いくら考えても自らの心に巣食った不安を取り除く術を見出せずにいた。