きっとまた手を繋ぐ 2 しんと静まり返った病院の廊下の窓の外。 明るい月に照らされ、硬い蕾を綻ばせ始めた桜の木が幻想的に浮かび上がっていたが、身に付ける暇を惜しんだ額当てを片手に急ぎ歩くカカシが、それに視線を向ける事は無かった。 時刻は夜半をとうに過ぎている。足音などさせるはずも無いが、焦っているからだろう。静かなはずの廊下が、耳元でガンガンと鳴り響く自らの鼓動で煩い。 教えられた病室の前にようやく辿り着き、淡い色合いの扉に手を掛けるカカシは、一つ大きく深呼吸した。音を立てないよう注意しながらその扉をゆっくりと開ける。 「・・・っ」 開けた先。カーテンが閉め切られた病室内はかなり薄暗かったが、青褪めた顔でベッドに横たわるイルカの姿を見止めたカカシは、らしくなく、ひゅっと小さく息を呑んでいた。深蒼の瞳が大きく見開かれる。 深夜の病院だ。 イルカの名を今にも叫び出しそうな自分に落ち着けと懸命に言い聞かせ、詰めていた息を細く吐き出すカカシは、イルカの側にゆっくりと歩み寄る。 暗部としての任務から帰還したばかりのカカシに、イルカが負傷したと教えてくれたのは火影だ。 イルカが任務に出るとは聞いていなかったからだろう。性質の悪い冗談をと信じようとしなかったカカシは、だが、子供を―――ナルトを庇ったと聞かされてようやく、イルカの怪我が本当である事を信じざるを得なくなった。 イルカを失っては生きて行けない。命に別状は無いとも教えられていたが、イルカの無事をこの目で確かめるまで、カカシは生きた心地がしなかった。 微かに上下するイルカの胸元。包帯が巻かれ痛々しくはあったが、イルカが確かに生きている事を確認し、安堵の溜息を細長く吐くカカシはベッドの側に静かに膝を付く。 きつく握り締めていた自らの額当てを足元に置き、口布を引き下げながらイルカの手をそっと握ったカカシは、その温もりを確かめるかのようにイルカの手の甲を自らの頬に押し当てた。そうしてイルカの寝顔を見つめるカカシの深蒼の瞳が切なく眇められていく。 置いて逝くとしたら自分の方が先だと、そう思っていた。 左目に写輪眼を宿すカカシの任務は過酷だ。イルカの元へ必ず戻ると心に誓っているカカシではあるが、いつ何が起こるか自分でも予測が付かないのが現状だ。 だから、もしもの時は、イルカには自分の事は早く忘れて再婚して欲しい。子供を産んでくれる女性と結婚し、たくさんの子供たちに囲まれて幸せになって欲しいとそう思っていた。 もちろん、自分だけを一生涯愛して欲しいという気持ちは多々あるが、イルカには、イルカを伴侶にと望んだ際に一生分の我が儘を聞いて貰ったのだ。死してなおイルカを束縛するのは贅沢だろう。 自分亡き後は、大好きな子供たちに囲まれて幸せな余生を送って欲しい。 随分と自分勝手な話ではあるが、そう思っていたのに―――。 (・・・イルカ先生・・・っ) 切なく眇めた瞳をゆっくりと閉じるカカシの眉根がきつく引き絞られていく。 自分よりも先にイルカが逝ったのでは、自分から解放してやれないではないか。子供を授かる機会を与えてやれない。 内勤が多いとはいえイルカも立派な忍だ。時には任務に出る事だってあるというのに、イルカに置いて逝かれる可能性なんて考えもしなかった。 任務時だけではない。今回のように、里内であっても命の危険に晒される事はある。 子供の為ならその身を簡単に呈してしまえるのがイルカだ。今回は無事だったが、次も無事だと誰が言えるだろう。 ―――・・・イルカが子供を欲しがっていると考えた事は無いのか。 イルカに先立たれる可能性に気付き、怯えるカカシの心にご意見番の言葉が重く圧し掛かる。 ―――イルカからその機会を奪っているのはお前じゃぞ、カカシ。 胸が締め付けられるように苦しいのは、自覚があるからだ。 イルカの神様に対する思慕の念を利用し近付いたせいだろう。イルカの愛情を疑っている訳ではないのに、神様という存在が無くともイルカに愛して貰えるか確証が持てないのだ。自分とでは子を成せないと分かっていて、それでも伴侶になってくれたかどうか確証が持てない。 イルカを失うかもしれない恐怖に襲われ、カカシは改めて強く思う。 確証が欲しい。神様という存在が無くても、イルカが自分を選んでくれるかどうか知りたい。 髪色と同じ銀の睫を揺らし、きつく閉じられていたカカシの深蒼の瞳がゆっくりと開かれていく。同時に開かれたのは、愛妻であるイルカにたった一度だけ、友人を紹介する際に見せた緋色の瞳。 床に付いていた膝を立てたカカシは、眠るイルカの顔を覗き込み、青褪めたその頬に僅かに震える手をそっと添えた。深蒼と緋色。イルカを見つめるカカシの色違いの双眸が切なく眇められていく。 (・・・ゴメンね、イルカ先生・・・) やり直しだ。 きっとまたこの手を繋ぐ日が来る。どんな出会い方をしたとしても、イルカはきっと自分を好きになってくれる。 子を成せないと分かっていても、自分と共に歩む道を選んでくれる。 「・・・イルカ先生」 不安ながらもそう信じ、カカシはイルカの名を小さく呼ぶ。血の気の無い唇にそっと口付けを落とす。 目覚めたのだろう。イルカの漆黒の睫が揺れ、そこから同じ色の瞳が僅かに覗いたその瞬間。 深蒼の瞳をゆっくりと閉じたカカシは、イルカの記憶にある神様と自分に関する事全てを、その緋色の瞳で封じていた。 再び眠ったイルカを残し、病室を出たカカシの足が不意に止まる。 さすがは火影と言うべきだろう。 月明かりが差し込む廊下。気配を微塵も感じさせずに佇む火影の姿を見止め、自分の行い全てを火影に知られている事に気付いたカカシは、その奥歯をぐっと噛み締めていた。 写輪眼を悪用し、火影が大切にしているイルカの記憶を操縦したのだ。 叱責の言葉が飛んで来るのだろうと思われたが、カカシの予想に反し、傘の奥から真っ直ぐに見つめて来る火影から掛けられた言葉は静かなものだった。 「・・・本当に良いのか」 ただ一言、そう問われたカカシから小さな苦笑が零れ落ちる。 (良いも何も・・・) この木の葉の里で写輪眼が使えるのはカカシのみだが、イルカの記憶は既に、術を掛けたカカシ本人でも解けないようになっている。 既に賽は投げられたのだ。後はただ、イルカの愛情を再び得るべく努力するしかない。 何も言わずともカカシの想いを推し量ってくれたのだろう。 「・・・わしは知らんぞ。怒ったイルカはそれは恐ろしいからの」 はぁと盛大に溜息を吐いた火影からそう告げられ、カカシの苦笑が深くなる。 伴侶となり、イルカの側でイルカの色んな表情を見て来たカカシだが、憤怒の表情だけは見た事が無い。 「・・・オレは、怒られたいのかもしれません・・・」 それに気付いたカカシが深蒼の瞳を切なく眇めながら小さくそう告げると、呆れられてしまったのだろうか。僅かに眉を顰めた火影から再度溜息を吐かれた。 「・・・お主らに関する事全てに緘口令を敷いておく。わしに出来るのはそれだけじゃ」 背を向ける火影からそう告げられ、静観して貰えると知ったカカシの深蒼の瞳が僅かに見開かれる。 火影が大事に慈しみ育てていたイルカを無理矢理に近い形で伴侶にと望んだカカシは、ご意見番の二人同様、火影から疎まれているとまでは言わずとも、快くは思われていないだろうと思っていた。 里の同胞に意図的に危害を加えた者は厳罰に処されるのが鉄則だ。 前回はイルカの意志もあり見逃してもらえたが、今回は違う。イルカの意思を無視して記憶を操縦したのだ。たとえ幽閉されたとしても、イルカの愛情を得る為の努力は惜しまないつもりだったが、まさか静観して貰えるとは思ってもいなかった。 自分の認識が誤っていた事を知ったカカシの深蒼の瞳が切なく眇められていく。 「・・・ありがとうございます」 火影の小さくも大きな背中。それに深く深く頭を下げるカカシは、火影の姿が見えなくなっても、いつまでも頭を上げようとはしなかった。 |
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