繋いだこの手を離さない 1






里内にある神社の広々とした境内は、里の子供たちの良い遊び場だ。
老齢な宮司が子供好きという事もあり、神社の境内からはいつでも、たくさんの子供たちの歓声を聞く事が出来ていた。
アカデミー入学を控えるイルカもその中の一人だ。両親共に忍であるイルカは、家に居ても一人で過ごさなければならない事が多く、毎日のようにここへ来ては、みんなと一緒に遅くまで遊んでいる。
いつものように神社に遊びに来ていたその日。社務所の向こう側から聞こえて来るみんなの声を耳にしながら、イルカは一人、社務所の裏手にある崖へと向かっていた。
柵も設置されていない危険な崖だ。宮司からは、こちら側へは決して行ってはいけないと何度も言われている。
よく悪戯をするイルカだが、言いつけを破るような悪い子ではないつもりだ。けれど、今日ばかりはその言いつけを守る事は出来そうになかった。
やはりイルカの気のせいではなかったのだろう。崖に近付くにつれ、みぃみぃと鳴く声がどんどん大きくなってくる。
今にも何か出て来そうな薄暗い雑木林に、ほんのちょっと心細くなりながらも、聞こえてくる声を頼りに前へと進んでいたイルカの視界が突如開ける。
「・・・ぅわぁ・・・」
神社が少し高台に位置しているからだろう。雑木林を抜けた先にあった少し拓けた場所。崖の上から眺める木の葉の里は、傾き始めた太陽に照らされてキラキラと輝いていた。
(・・・きれい・・・)
ここに来た目的も忘れ、しばらくの間見入ってしまっていたイルカだが、みぃと一際大きく鳴く声でハッと我に返る。
急いで辺りを見回したイルカの視線の先。崖を大きく張り出して伸びている木の枝先にあったのは、必死な様子でしがみつく小さな子猫の姿だった。
神社で何度か見掛けた事のある白黒ぶちの子猫だ。何かを夢中で追い掛けたのか、その子猫が枝先から今にも落ちそうになっている事に気付いたイルカの漆黒の瞳が大きく見開かれる。
「にゃんこ・・・っ」
子猫がしがみついている木の側へ急いで駆け寄ったものの、小さなイルカの背では、子猫には到底手が届かない。
(どうしよう・・・っ)
助けを求めているのだろう。イルカを見止めた子猫の鳴き声が激しさを増す。
すぐに助けてあげたいけれど、イルカでは無理だ。
「まっててね!いま、おとなのひと・・・っ」
大人の人を呼んでくるからというイルカの言葉は、子猫がズズッとずり落ちそうになった事で、ひゅっと喉の奥へ飲み込まれた。
誰かを呼びに行っている暇は無い。自分が助けなければ。
咄嗟にそう判断したイルカは、子猫がしがみ付いている木へ急いでよじ登り始めた。
活発なイルカであるからして、木登りは大の得意だ。それ程時間を掛ける事無く、子猫が居る枝まで到達する。
(・・・ぜったい下はみちゃだめ)
下を見てしまえば、恐怖で足が竦む事をイルカは知っている。木の枝を両足で挟み込んだイルカは、枝先に居る子猫にだけ視線を当て、両手を使ってゆっくりと子猫へ近付き始めた。
「そぉっと、そぉっと・・・」
枝を揺らせば子猫が落ちてしまう。出来るだけ枝を揺らさないよう近付き、手が届く位置までやって来たイルカは、小さく震える子猫を怖がらせないようそっと両手を伸ばした。
「こわくないからね。うごいちゃだめだよ」
小さくそう声を掛けながら懸命に手を伸ばし、枝にしがみ付いていた子猫の身体を、伸ばした両手でしっかりと抱きかかえる。
両手に抱いた子猫の温かな感触にホッとしたのも束の間。
「ぅわ・・・っ」
木から両手を離したのが不味かったのだろう。両足で支えているだけでは均衡を保てなくなったイルカの身体が、ぐらりと大きく傾ぐ。
視界が揺れ、両手で抱えていた子猫を急いで片手に抱き直したイルカは、もう片方の手を懸命に伸ばした。
「・・・っ」
手近にあった枝を何とか掴んだものの、自分の身体を支えられる程の筋力はイルカには無い。ましてや片手だ。すぐに手が痺れ始める。
状況を理解しているのか、片手で抱く子猫が大人しくしてくれているのが幸いだった。イルカの服にしがみ付いている子猫を、落とさないようしっかりと胸に抱く。
だが、このままでは子猫もろとも崖下へ落ちてしまう。
「だれか・・・っ」
恐怖で竦む喉を叱咤し、イルカは懸命に声を出す。
けれど、社務所までは少し距離があり、イルカの掠れた声を耳に拾ってくれる人が近くに居ない事は、ここに一人でやって来たイルカが一番良く知っていた。
木の枝を掴むイルカの手が、徐々にずり落ちていく。
(・・・も・・・だめ・・・っ)
イルカの漆黒の瞳にじわりと涙が浮かび、ゆっくりと眇められていくその瞳が完全に閉じられた瞬間。
「・・・ッ!」
掴んでいた木の枝が手から離れたイルカの身体は、だが、崖下へと落ちて行くことは無かった。
「・・・しっかりしろ・・・っ、今助けてやる・・・!」
一瞬ではあったが、襲われた落下の衝撃で薄くなっていく意識の中。力強く握られた手と頭上から聞こえてきたその声に、イルカは薄っすらと瞳を開けた。
ゆっくりと見上げた先。眩しい日差しがイルカの視界の邪魔をするが、眇めるイルカの瞳に映ったのは、逆光の中で光り輝く銀色の髪。
(・・・きれい・・・)
助けてやるという言葉に安堵してしまったのだろう。子猫を腕に抱くイルカの意識は、そう思ったのを最後に、ふつと途切れた。




次に意識を取り戻した時。
イルカは、社務所の縁側に座る宮司の腕に子猫と共に抱かれていた。
いつの間にこんなに傾いてしまったのだろうか。沈みつつある太陽の日差しで境内は黄昏色に染まっており、もう帰ってしまったのだろう。一緒に遊んでいた友だちの姿も見る事は出来なかった。
(あれ・・・?おれ・・・)
何をしていたのか一瞬思い出せなかったが、瞳を開けたイルカに気付いた子猫が、みぃと小さく鳴きながら擦り寄って来たのを見て、イルカは自分が子猫と共に崖から落ちそうになった事を思い出した。
「・・・気が付いたか。もう大丈夫だよ、イルカ」
頭上から声を掛けられ視線を向ける。目尻の皺を深め、心配そうに見下ろしてくる宮司の優しい瞳と視線が合った途端、イルカの瞳にぶわと涙が浮かんだ。
「ぐうじさま・・・っ、おれ・・・っ」
子猫の鳴き声が聞こえ、禁じられていた崖の側へ行ってしまった事。大人を呼びに行こうとしたのだが、子猫が落ちそうになり、自分で助けようとして自分まで落ちそうになってしまった事を涙ながらに話すと、そんなイルカの頭を、宮司は優しく頷きながら何度も撫でてくれた。
今更ながらに恐怖に震えるイルカの身体を、震えが治まるまで優しく抱き締めてくれた老齢な宮司は、少しのお説教と、それからイルカを助けてくれた銀髪の主の事を静かに語ってくれた。
「・・・イルカを助けて下さったのはサクモ様だ」
「サクモ、さま・・・?」
「そうだよ。命を助けて貰ったんだ。感謝しなければいけないね」
頭を優しく撫でてくれる宮司からそう諭されながら、イルカは気を失う直前に見た綺麗な銀色の髪を思い出していた。
逆光で顔は窺えなかったけれど、銀色の髪と、繋いだ手の力強い感触は、今でもはっきりと覚えている。
(サクモさま・・・)
助けて貰った事を一生忘れないようにしなければ。
サクモが繋いでくれていた自らの手をぎゅっと握り締め、そう心に誓うイルカの膝の上では、共に助けて貰った子猫がすやすやと心地良さそうに眠っていた。


その時からだ。
その時からずっと、イルカの心の中には『サクモ様』という銀髪の神様が棲んでいる。