繋いだこの手を離さない 2






木々の合間を縫って歩くイルカの忍服を、夜露が僅かに濡らしていく。
九尾によって大きく削られていた里の戦力も完全に戻り、強国の一つとして名を馳せている火の国であるが、その国境付近では未だに隣国との小競り合いが絶えない。
国境沿いにいくつかある砦の内の一つ。他と比べても小さなその砦周辺は、最近特に隣国からの侵入が頻発しており、警備の強化が急務とされていた。
天空では満月が輝いているはずだが、木々が鬱蒼と覆い茂る森の中は月よりも明るい太陽の日差しですら届き難く、身を隠し、何かを隠すには最適な場所だ。
手元すら覚束無い暗闇の中、今回の国境警備強化という任務において分隊長を拝命したイルカは、二名の部下を引き連れ、随所に仕掛けられているトラップの動作確認作業に追われていた。
「・・・こっちは大丈夫そうだな。そっちはどうだ?」
「動作確認しました。こちらも大丈夫です、うみの分隊長」
中忍となって早二年だ。初めのうちこそ戸惑う事も多かったその呼び名にも、今ではもうすっかり慣れてしまった。
少し離れた場所からそう報告してくる部下へ頷いて見せながら、片膝を付いていたイルカは次のトラップ設置場所へ移動すべく立ち上がる。
(急がないと朝になるな・・・)
国境がすぐ近くという事もあり、設置されているトラップの数も半端ではない。
分担されているとはいえ、その全ての動作確認をしなければならないのだ。迅速かつ丁寧に数をこなさなければ、終了までに幾夜も掛かってしまう。
それに、火の国の領土内であっても、ここは隣国からの侵入が多数報告されている場所だ。いつ何時、侵入者に遭遇するか分からない。
急ぐに超した事は無いだろうと、イルカが「少し急ぐぞ」と言いながら背後の部下たちを振り返ったその時。
「・・・ッ!」
侵入者だろう。斜め後方から飛んできた一本のクナイが、イルカの右上腕部を突き刺した。
「うみの分隊長ッ!」
「・・・大、丈夫だ・・・っ、来るぞ!」
後方から次々と飛んでくるクナイを避けながら、イルカは駆け寄って来た部下たちと共に木々の合間を疾走する。
振り返ったのが幸いしたのだろう。イルカの背中越しに心臓を一突きするはずだったクナイは、辛うじて、腕の主要な血管も傷付けずに済んでいた。
腕に突き刺さったままだったクナイを引き抜くイルカの顔が痛みに歪む。
毒も塗られてはいなかったようでホッとしたが、出血は避けられない。どこかで応急手当てしたい所だが、追われている今、そんな暇はありそうに無かった。
それに。
(引き離すつもりか・・・っ)
イルカたちが拠点としている砦へは戻らせないつもりなのだろう。砦へ向かおうとするイルカたちの進路を、後方から飛んでくるクナイが邪魔をする。
敵の数が多い。飛んでくるクナイの数からそう判断したイルカは、木々の合間をすり抜けながら、腕から引き抜いたばかりのクナイを一本の木に向かって投げ付けた。
クナイが木に突き刺さるタンッという高い音に続いて、暗い森の中に閃光が走り、ドォンッと大きな爆発が発生する。
仕掛けられていたトラップの一つだ。爆発と共に発生した土煙が、イルカたちの姿を覆い隠していく。
「お前たちは緊急ルートから戻れ!」
侵入者に遭遇し襲撃された場合に備え、砦周辺には特殊な幻術が掛けられた特別ルートが存在する。掛けられた幻術を解術出来るのは、暗号を知っている木の葉の忍のみという緊急時用のルートだ。
部下二人にそう指示し、イルカは単身、砦の方向へと疾走し始めた。
利き腕に怪我をしているイルカは足手纏いだ。敵を引き付け、部下をより安全に逃がす為の囮役くらいしか出来る事は無い。
イルカにやられるつもりは更々無い。幸い、逃げるのに必要な両足は無事だ。左腕だってある。
地面から大きく跳躍し、土煙の中から抜け出したイルカは、怪我を負った右腕を庇いながら、砦へ向け枝から枝へと次々に伝い始めた。
足の速さには少々自信がある。それに、砦はすぐそこだ。先ほどの爆発音で、他の部隊も異常に気付いたはず。
助けはすぐに―――。
「悪いな」
「・・・ッ!」
すぐ真横から聞こえてきたその声に、バッと振り向いたイルカの視線の先。
「男との追いかけっこは趣味じゃないんだ」
中忍以上の実力を持っているのだろう。他里の額当てを身に付け、そう言いながらニィと小さく笑みを浮かべて見せる男の姿を見止めたイルカの瞳が大きく見開く。
(不味い・・・ッ!)
ヒュンと風を切る音と共に、怪我をしているイルカの利き腕を狙って繰り出される蹴り。それを避けようと均衡を崩したイルカの身体が、次の枝を捕らえる事無く落下していく。
このままでは地面へ叩き付けられてしまう。
それを避けようと差し伸ばされたイルカの手が木の枝を掴むが、掌に付いていた自らの血でずるりと滑る。
「・・・ッ!」
木から離れてしまったイルカの手は、だが、どこからか伸びて来た鉤爪の付いた手甲に覆われた手が力強く掴んでくれた。イルカを襲っていた落下の衝撃が止む。
(え・・・?)
懐かしい感触だ。それを感じた途端イルカの脳裏に思い浮かんだのは、今でもはっきりと覚えている銀髪の神様の輪郭。
「・・・大丈夫?」
里の仲間なのだろう。頭上から聞こえて来た少々くぐもったその声は、イルカの身を案じてくれているものだ。
「あ、ありが・・・ッ」
それにホッと安堵し、まずは礼をと視線を上げたイルカは、見上げた先に暗部面を見止め、少々ギョッとしてしまった。
(暗部・・・っ)
けれど、すぐに気付く。太い木の枝の上に片膝を付くその人の暗部面の端々から、夜闇の中でも浮かび上がる綺麗な銀色の髪が覗いている事に。
それを見たイルカの瞳が大きく見開かれていく。
「・・・ココでちょっと待ってて。アイツ等片付けてくるから」
イルカを木の枝の上へと引き上げてくれた銀髪の主からそう言われ、イルカはようやく気付く。
(囲まれてる・・・っ)
幼い頃に助けて貰って以来ずっと、イルカが心の中で神様と慕っているサクモに良く似た力強い手と銀髪の持ち主に出会って驚いたからだろう。敵に追われていた事をすっかり忘れていた。
見渡してみれば二人の周囲は完全に敵に囲まれており、イルカはクナイが収められているホルスターへゆっくりと手を伸ばした。
怪我をしている身では足手纏いになってしまうだけかもしれないが、援護しなければ。
敵の数が多い。いくら木の葉精鋭の暗部といえど、これだけの数をたった一人で相手するのは無理がある。
そう思ったのは敵も一緒だったのだろう。
「・・・たった一人で何が出来る。片付けられるのはお前の方だ」
勝利を確信した笑みを浮かべ、少し離れた木の枝の上からそう告げて来たのは、隊長格なのだろう。先ほどイルカへ蹴りを入れようとしたあの男。
木の枝の上で片膝を付くイルカの傍らでその言葉を聞いていた銀髪の主が、暗部面の下でふと小さく笑い声を上げる。
「・・・それはどうだろうねぇ」
低くそう告げる彼の手甲に覆われた手がその背へと回され、スッと音も無く引き抜かれたのは、彼の髪と同じく夜闇の中でも銀色に光り輝く忍刀だった。