繋いだこの手を離さない 17 開け放たれている窓から爽やかな風が吹き込んで来ている。 里の中心部から少し離れた閑静な場所に建つその家の庭では、自生したらしいタンポポが、可憐な黄色い花と白い綿毛をいくつも揺らしていた。 庭に面するリビングの一角。玄関へ続く扉に背を向けて置かれたソファは、大人二人が座ってもゆったりと大きく、カカシと二人で暮らすこの家の中でも特にイルカお気に入りの場所だ。 手にした手紙を読みながら、イルカはそのソファにゆっくりと座る。 今朝、蓮の国から届いたというその手紙は、イルカの代わりに蓮の国へ派遣されているヤナギからのものだ。 見慣れたヤナギの字を追うイルカの瞳が柔らかく細められる。 手紙には、双方の建前上、無期限とされていた任期は三年に変更になった事。 蓮の国大名の末娘は、イルカを好ましい人だったとは言ったが婿にとは一言も言っておらず、早とちりし、勝手に話を進めていたらしい大名は「しっかりと叱っておきました」と、その末娘本人から謝罪と伝言を頼まれた事。 それから、留守にする三年の間、家の管理をイルカに頼みたい事が書かれており、蓮の国は花が多く綺麗な土地で、イルカのお陰で楽しく過ごさせて貰っていると、最後はイルカへの感謝の言葉で締め括られていた。 それを読んだ途端、イルカの瞳にじわりと涙が滲む。 (・・・こっちこそ、ありがとう。ヤナギ・・・) 高熱で倒れたイルカの代わりに蓮の国へ派遣する者を決める際、誰もが躊躇う中、ヤナギは自ら志願したとアカデミーの同僚から聞いているが、イルカの事情を最も良く知っていたヤナギだ。それがイルカの為である事は明白だろう。 事情を説明する火影の書簡が先に送られていたとはいえ、事と次第によっては身の危険すらあったというのに、志願してくれたヤナギには感謝してもしきれない。 「・・・ヤナギには感謝しないとね」 イルカが座るソファの背越し。ゆっくりと伸びて来た手甲に覆われる手が、イルカの頬をそっと擽る。 目尻に浮かんでいた涙を指先で拭いながら振り返ってみると、他の部屋の戸締りをしてくれていたカカシが、その深蒼の瞳を柔らかく細めながらソファの背に凭れて立っていた。 「・・・そうですね」 小さく笑みを浮かべて頷くイルカの頭をよしよしと撫でてくれていたカカシから、「そろそろ出掛けましょうか」と促され、「はい」と一つ頷いたイルカは、手にしていた手紙をテーブルの上へ置く。 座っていたソファから立ち上がったイルカはそうして、差し伸ばされていたカカシの手に自らの手を添えた。 イルカの誕生日をカカシに教えた覚えはイルカにはない。 だが、一緒に暮らし始めてすぐだっただろうか。上忍としての任務へ向かう準備をしていたカカシから、イルカの誕生日までには帰って来る事。それから、料亭を予約してあるから、イルカの誕生日には予定を入れないようにと告げられた。 任務で忙しいカカシに負担を掛けたくないと、自分の誕生日を告げるか告げないかずっと迷っていたイルカだ。 なかなか言い出せず、今年も一人なのだろうと思っていただけに、カカシに祝って貰える嬉しさで泣きそうになってしまったイルカはその後、苦笑するカカシから、 「オレに遠慮しないの。オレだって、あなたの誕生日をお祝いしたいんですから」 と、小さなお叱りを受けた事で、溢れる涙を堪える事が出来なくなった。 そうして迎えたイルカの誕生日当日。 カカシに連れられてやって来た料亭は、木の葉の里でも一、二を争う有名な料亭だった。 中忍のイルカには縁遠い高級料亭だ。その入り口で早くも気後れするイルカを余所に、二人で暮らす家を出た時からずっと手を繋いだままのカカシが中へと入ってしまう。 すぐに出迎えてくれた女将らしき女性から、「いらっしゃいませ」と人懐っこい笑みを向けられ、イルカは少しだけホッとする。 「お座敷へご案内致します。皆さまお待ちですよ」 「・・・え?」 先に立って歩きだした女性が言った『皆さま』とは一体誰の事だろうか。 その答えを求めるイルカがカカシへと視線を向けてみると、何かを知っているのだろう。 「すぐに分かりますよ」 深蒼の瞳を柔らかく細めるカカシからは、ただそれだけが告げられた。 そう言われてしまうと、それ以上は聞けない。 (何だろ・・・) 小さく首を傾げるイルカの視界の中。先に立って歩いていた女性が立ち止まり、すっと膝を折ったのは、二人で食事をするには広過ぎるだろうと容易に分かる座敷の前。 「お二人がお着きになりました」 中へとそう声を掛けた女性がゆっくりと障子を開け、大きく開かれた障子の先。 「え・・・」 そこには、アカデミーや受付所でイルカと共に仕事をする同僚たちと、それから、カカシの上忍仲間なのだろう。イルカも受付所で何度か顔を見た事のある者たちの姿があった。 「遅ぇぞ、カカシ!」 「うるさいよ、髭熊ッ」 たくさんの拍手と「おめでとう」という祝福の言葉の合間、飛んで来る野次へ煩わしそうに返すカカシの声が遠い。 「うそ・・・」 それはそうだろう。イルカが呆然と見つめる先には、奥に掲げられた横断幕に手書きされた『披露宴』の文字。そして。 (・・・火影様・・・っ) 横断幕の真下に設けられていた簡単な雛壇には、渋顔ながら、イルカが父とも祖父とも慕う火影の姿。 「・・・ビックリした?」 驚き過ぎて動けなくなったイルカの顔を、傍らに立つカカシがそっと覗き込んで来る。その顔には、悪戯が成功した子供のような笑み。 こくこくと何度も頷くイルカの顔がくしゃりと歪む。 二人が伴侶となる事を最初に認めてくれたのは火影だが、カカシとの遣り取りを見る限り、火影も本当は反対しているのだろうとばかり思っていたのだ。披露宴と冠されたこの席で、火影の姿を見る事が出来るとは思ってもいなかった。 どうやって火影を説得したのだろうか。 声に出して問わずとも、視線を向けただけでその疑問を理解してくれたのだろう。イルカから潤んだ瞳を向けられたカカシが、ふと小さく苦笑を浮かべて見せる。 「火影様ね、イルカ先生の媒酌人は自分がするんだって聞かなかったんですよ」 「・・・っ」 周囲に聞かれないようにだろうか。内緒話でもするかのように小さく告げられたその言葉で、それまで懸命に堪えていた涙が堪え切れなくなる。 幸せの絶頂だろうと思うこの瞬間を鮮明に記憶しておきたいというのに、溢れる涙が止まらない。 「イルカ先生」 ぼろぼろと子供のように泣くイルカの手を、深蒼の瞳を柔らかく細めるカカシの手がそっと引き、促されたのは、泣きじゃくるイルカを見て渋顔を崩し始めた火影が待つ雛壇。 「一緒に行こ?」 一緒にと言ってくれたカカシの手を、イルカはぎゅっと握り締める。 「はい・・・っ」 一つ頷くイルカはそうして、火影が待つその場所へ、ゆっくりゆっくり歩みを進めた。 |
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