繋いだこの手を離さない 16






五月も半ばになり、だいぶ日の入りが遅くなって来た。受付所の窓の外、燈色に輝く太陽が徐々に沈んでいく。
「・・・はい、結構です。お疲れ様でした」
早朝の受付所も混雑するが、この時間帯の受付所も報告書を提出する者たちで混雑する。
火影と共に数人が着くカウンターの一角。笑みを浮かべて報告書を受理するイルカがカカシの伴侶となって数日経つが、イルカの環境はあまり変わっていない。
以前と同じく、毎日アカデミーで教鞭を執り、受付所のカウンターでこうして報告書を受理している。
カカシが守ってくれた日常だ。日々カカシに感謝する生活を送っているイルカは、だが、その生活に少しだけ悩みを抱えていた。
上忍としての任務よりも暗部としての任務の方が多くなったのか、伴侶となったはずのカカシになかなか会えないのだ。
カカシの住まいは知っている。カカシが忙しいのなら自分から会いに行けば良いとは思うのだが、あまりにも以前と同じ生活を送っているせいだろう。あれは夢だったのではと思う自分が、カカシに会いに行こうとするイルカの足を躊躇わせている。
「・・・どうした、イルカ。疲れでもしたか」
報告者が途切れた途端、イルカから切ない溜息が小さく零れ落ち、それを聞かれてしまったのだろう。隣の席に座る火影から気遣わしそうにそう声を掛けられたイルカは、火影へと向けるその顔に慌てて笑みを浮かべて見せた。
「いえっ、大丈夫です。その、少し腹が減ってしまって・・・」
カカシに暗部としての任務を命じているのだろう火影に、「カカシに会えなくて淋しい」なんて子供じみた我侭を言える訳が無い。
笑みを苦笑へと変えたイルカが自らの腹を擦りながらそう告げると、ちょうど夕飯時だから、それで誤魔化されてくれたのだろう。
「・・・あと十分もすれば交代の時間じゃ。それまで我慢せい」
少々呆れたような表情を浮かべる火影からそう告げられた。
へへと面映い笑みを小さく浮かべるイルカから視線を逸らし、手元の資料へと視線を落とす火影を見つめるイルカの漆黒の瞳が、ふと柔らかく細められる。
イルカの環境が以前とあまり変わっていないのは、以前よりもイルカの隣の席に座る事が多くなった火影のお陰でもあるのだろう。
イルカを陵辱したと宣言した本人であるカカシから、好奇の眼に晒されるかもしれないと危惧されていたイルカは、だが、火影がこうして隣で目を光らせてくれているからか、カカシが心配するような事態には陥らずに済んでいる。
(・・・ありがとうございます、火影様)
心の中で感謝の言葉を告げていると、そのイルカの視界の中。不意に火影の眉間に深い皺が刻まれ、その気配がピンと鋭く尖った。
「・・・イルカ先生」
どうかしたのだろうかと思う間もなく、聞きたいと切望していた声に名前を呼ばれ、イルカの身体がピクンと小さく震える。
(カカシ様・・・っ)
カウンターの向こうへ急いで視線を戻してみると、いつの間にやって来たのだろうか。銀髪を揺らし、その深蒼の瞳を柔らかく細めるカカシがイルカのすぐ目の前に立っていた。
カカシに会うのは、イルカがカカシの伴侶になって以来だ。その姿を見止めたイルカの顔がぱぁと綻び、自然と笑みが浮かぶ。
だが、イルカが笑みを浮かべていられたのは一瞬だった。
「・・・ここに何をしに来た。お主の任務は明朝からと既に連絡したはずじゃが」
隣の席に座る火影の口から明らかに機嫌が悪いと分かる声が発せられ、イルカの顔に浮かんでいた笑みが消え、それまでざわついていた受付所内がしんと静まり返る。
「式を受け取りましたから分かってますよ。少しだけですが、やっと暇を貰えましたからね。そろそろ交代の時間だろうと思って、イルカ先生を迎えに来たんです」
火影の機嫌が急降下した事に気付いているのかいないのか。イルカがハラハラしながら見守る中、涼しげな表情でそう答えていたカカシが、火影の隣の席に座るイルカへ笑みを向けてくる。
「一緒にご飯食べに行こ、イルカ先生。新居の相談もしたいですし」
それを聞き、カカシと一緒に夕飯を食べられると喜ぶイルカは、最後に想像もしていなかった言葉を聞いたからだろう。カカシを見上げるその首を小さく傾げていた。
(・・・しんきょ?)
だが、イルカの首が傾いでいたのは僅かな間だった。
「・・・何を言っておる。同居する必要などなかろう」
さらに機嫌が悪くなったらしい火影が唸るように告げたその言葉で、一緒に暮らしたいと言われている事にようやく気付いたイルカの瞳が驚きに見開かれる。
イルカが吃驚させられたのはそれだけではなかった。
「火影様こそ何を仰っているんですか。オレたちは夫婦になったんですから。一緒に住むのは当然です」
「・・・!」
ニッコリと笑みを浮かべるカカシが少し声高に告げたその言葉で、しんと静まり返っていた受付所が喧騒に包まれる。
驚き過ぎて動けなくなったイルカを余所に、カウンターを挟んで繰り広げられていた火影とカカシの攻防戦は、カカシのその発言で決着がついたのだろう。
「またもや謀りおったな、カカシ・・・っ」
悔しそうな表情を浮かべた火影に対し、「何の事ですか?」と返していたカカシが、手甲に覆われたその手をイルカへ差し伸べてくる。
「おいで、イルカ先生。行こ?」
深蒼の瞳を柔らかく細めるカカシにそう促され、喧騒に包まれたままの受付所から連れ出されたイルカは、受付所から一歩廊下へ出た途端、カカシから「ゴメンね」と小さく謝られた。
何の事だろうかと首を傾げるイルカへ、受付所の扉を後ろ手に閉めていたカカシが申し訳なさそうな表情を向けてくる。
「その・・・、皆にも分かり易いように『夫婦』って言葉を使いましたけど、オレたちは対等な伴侶だとちゃんと思ってますから」
「あぁ・・・」
どうやらカカシは、二人の関係が『夫婦』であると皆の前で宣言した事を気に病んでいるらしい。それを聞いたイルカの顔に、そんな事かと小さく苦笑が浮かぶ。
「ちゃんと分かってます。それに・・・」
カカシの嫁になれるものならなりたい。
嫁になれば、カカシを堂々と独占出来るのだ。カカシの子を生せないイルカがその立場になれない事は嫌と言う程に理解しているが、任務で忙しいカカシの為に掃除や洗濯をし、栄養満点の食事を作る事ならイルカでも出来るだろう。
イルカの苦手とする事ばかりだが、カカシを支える為ならきっと頑張れる。
「・・・その、カカシ様の嫁になら、なりたい・・・です」
鼻頭の傷を掻きながら小さくそう告げてみると、驚いたのだろう。カカシの深蒼の瞳が大きく見開かれた。
男のくせに嫁になりたいだなんて、何を言っているのだと笑われるかもしれない。
瞳を大きく見開いたまま、なかなか反応を返さないカカシを見ていられず、淋しい笑みを小さく浮かべて俯くイルカの手を、カカシの少しひんやりとした手がそっと握る。
「・・・イルカ先生」
少々不安だったが、殊更優しく響いたカカシのその声に励まされ、イルカは俯かせていた顔を恐る恐る上げてみる。すると。
(あ・・・)
カカシの愛しい愛しいと語る深蒼の瞳と視線がぶつかったと思った次の瞬間。
僅かに俯いていたイルカの唇は、口布を指先で引き下ろしたカカシの唇に、下から掬い上げられるようにそっと塞がれていた。
「・・・夕飯も新居の相談も後でいい?イルカ先生を早く連れて帰りたい」
「・・・っ」
至近距離で口布を引き上げるカカシから、囁くように小さくそう告げられたイルカの顔が、これ以上ない程に真っ赤に染まる。
了承の言葉を告げるのは、とてもじゃないが恥ずかしくて出来そうにない。
代わりに、繋がれている手をぎゅっと握り締めてみると、それで分かってくれたらしいカカシが、「早く行こ」と急くように先に立って歩き出した。
(・・・嬉しい・・・)
里長である火影の前ですら余裕の表情を崩さなかったカカシの、余裕の無さそうなその言動が嬉しい。
夕闇が迫る廊下をカカシと共に歩きながら、真っ赤に染まっているのだろう顔を俯く事で隠すイルカの視線の先。
カカシに繋がれたままの手を愛おしそうに瞳を眇めて見つめるイルカの顔には、隠し切れない笑みが小さく浮かんでいた。