情けは人の為ならず 1
2015年イル誕





春の陽気が差し込む受付所は今日も混雑している。
その受付所でカウンターに着き、報告書を次々に受け取っていたイルカは、人の波が途切れた所でもう何度目になるか分からない大きな溜息を吐いた。
「・・・辛気臭ぇぞ」
途端、隣の席に座る同僚からそう言われ、イルカは「悪い」と苦笑する。
元気だけが取り柄だと自他共に認めるイルカに元気が無いのには理由がある。
つい先日、長年暮らしていたアパートを追い出されたのだ。
数か月分の家賃を滞納していたのだから当たり前だ。当たり前だが、住み慣れた住居だけはどうにか死守しようと頑張っていただけに、イルカの落胆ぶりは誰の目にも明らかだった。
(これからどうすっかなぁ・・・)
どうもこうもない。万策尽き果てているのだ。天を仰ぐしかない。
イルカから再度大きな溜息が零れ落ち、途端、隣の席の同僚から無言での蹴りを軽く入れられた所で、イルカの目の前からふと小さく笑う気配がした。
「お疲れみたいですね」
慌てて顔を上げてみれば、相変わらず胡散臭い程に顔を隠したカカシが報告書を片手に立っている。
「お疲れ様です・・・っ」
隣の席の同僚とほぼ同じタイミングで頭を下げ、「お願いします」と差し出された報告書を「お預かりします」と受け取る。
カカシ率いる第七班の任務報告書だ。
今日もあいつら頑張ったんだなと、にやけそうになる顔を引き締めながらチェックを終えたイルカは、待っていたカカシに「結構です」と笑みを浮かべて見せる。
「ありがと」
そんなイルカに、こちらも笑みを返してくれていたカカシが、突然「あ」と声を上げた。
「イルカ先生にちょっとお話があるんですけど、少し抜けても大丈夫?」
イルカに尋ねた、というよりも、隣の同僚に確認したという方が正しい。
「はい、大丈夫です」
イルカの意思は完全無視でカカシと同僚の間で話が進められ、ごくごく簡単に席を離れる許可が出たらしい。気が付けば、イルカは受付所の外廊下へと連れ出されていた。
「・・・体調はもう大丈夫?」
二人きりになってすぐ、カカシから小さくそう尋ねられたイルカは、消えて無くなってしまいたいとはこの事だと思い知る。
「その節は本当にご迷惑を・・・」
イルカの目の前に立つ人物は、次期火影候補と謳われている程の凄腕の忍だ。
そんなカカシに、一介の中忍であるイルカが多大どころではない迷惑を掛けたのだ。土下座したいくらいだったが、ここは受付所の前。目立つ事この上ない。
その代わりにと深々と頭を下げようとするイルカを、「それは気にしなくてイイですから」と押し留めたカカシが小さく首を傾げて見せる。
「住むところは?今はどこで寝泊りしてるの?」
これまでは友達の家を転々としていたが、今夜から野宿する予定です、などと言えるはずがない。
宿無しなのだと改めて自覚し、複雑な顔で黙り込んだイルカを見て色々察したのだろう。大きく溜息を吐いたカカシがふと小さく苦笑する。
「ウチにおいで」
そう言われて、はい分かりましたと甘えられるはずもない。とんでもないと首を振ったが、カカシは引かなかった。
「言ったでしょ?留守を預かって欲しいって」
「ですが・・・っ」
確かに留守を預かって欲しいと言われ、カカシ宅の合鍵も大切に持ってはいる。
だが、これまで殆どと言って良い程接点の無かったカカシにこれ以上の迷惑を掛ける訳には―――。
「もちろんタダで、とは言いませんよ。掃除洗濯炊事をするコトが条件」
「え?」
どういう事だろうかと戸惑うイルカの目の前で、カカシの深蒼の瞳が苦笑を形取る。
「オレが忙しいの知ってるでしょ?助けると思って」
お願いと両手を合わせられ、イルカは慌てて「やめて下さい」とカカシを止める。
確かにカカシが忙しい事は充分過ぎる程に理解している。
上忍師としての任務に加え、上忍師なら普通は免除されるはずの上忍としての任務。おまけに、受付所では把握出来ていないが、暗部としての任務にも借り出されているという噂があるのだ。
受付所内でも過労一歩手前だと物議を醸しており、何とか休暇を捻じ込めないかと日々苦労しているのである。
「ダメ?」
さらに押してくるカカシを見つめながら考える事しばし。
宿無しになったイルカの為に言ってくれているのだろうが、イルカが掃除洗濯炊事を担当すれば、カカシの為にもなるのではないだろうか。
何よりイルカには、カカシに返さなければならない多大なる恩義がある。
ただ、気になる点というか確認しておかなければならない点が一つ。
「カカシ先生」
イルカがカカシの名を呼ぶと、「ん?」と答えたカカシの銀色の髪が大きく揺れた。
「恋人は居ないんですか」
大事な事である。
居候の条件に掃除洗濯炊事を出す程だ。今は居ないのだろうとは思うのだが、如何せん、カカシは派手な浮名を常に流している優男である。確認しておくに越した事は無い。
「残念ながら今は」
苦笑するカカシから即答され、イルカの腹の内が決まる。
自分の為ではなくカカシの為、引いては里の為である。
「分かりました。お世話になります」
「ホント?良かった」
どこまで人が良いのか。
あれだけの失態を見せたのだから当然なのかもしれないが、余程イルカの事が気掛かりだったのだろう。カカシがホッと安堵したような表情を浮かべて見せる。
だが、カカシの人の良さに甘えては駄目だ。それに、カカシにいつ恋人が出来るか分からない。
居候しているイルカの存在を勘違いされた挙句の修羅場だけは極力避けたい。
「早く借金を返して出て行けるよう頑張りますね」
これ以上の迷惑は掛けないよう頑張らなければと気合を入れるイルカに対し、カカシの方は気掛かりだったイルカを保護出来て安心したのかニコニコだ。
「いつまででも居て構いませんよ」
そういう訳にはいきませんと内心思いつつも、「はい、ありがとうございます」と笑顔で返すイルカは、騙されやすい自分の事は棚に上げ、カカシのあまりの人の良さを心配していた。





湯船にゆっくりと腰を下ろすイルカの全身を柔らかなお湯が包み込む。
常々思うのだが、一番風呂というものは、どうしてこうも幸せな気持ちにさせてくれるのだろうか。
さすがは上忍寮と言うべきか、湯船が広いというのも良い。手足を伸ばして風呂に入るなんて何年ぶりだろう。
肩まで浸かると、凝り固まっていた身体が解れて行くのが分かる。
「あぁー極楽だぁー」
友人宅に預けていた荷物も運び込んでいたおかげで、もうだいぶ深い時間だ。ご近所迷惑にならないようにと小さく呟いたのだが、浴室の隣にある脱衣所にはしっかりと聞こえたらしい。
「それは良かった」
くつくつと小さく笑う声と共に、カカシのそんな言葉が返って来た。
いつの間に入って来たのだろうか。寝る体勢に入っていた身体を慌てて起こして見れば、擦りガラス越しにカカシの姿がある。
「タオルが無かったでしょ?ココに置いておきますね」
「すみません、ありがとうございます」
家主であるカカシよりも先に風呂に入らせて貰っている上に、タオルまで持って来させるとはと恐縮するイルカの視線の先。すぐに出て行くかと思われたカカシが動かない。
「カカシ先生?」
まだ何か用事だろうかと首を傾げるイルカがカカシの名を呼ぶと、ハッとしたようにカカシの影が揺れた。
「ううん、何でもない。ちゃんと温まってね」
何でもないという風ではなかったと思うのだが、カカシがそう言うのなら特に用事は無かったのだろう。
訝しがりながらも「はい」と返したイルカは、カカシの言葉に甘えて再度湯船に身を沈めた。