2011年高耶BD
感謝の日 1
2011年直江BD小さなぬいぐるみと缶コーヒーとの続編となっております。






七月初旬ともなると、都心部では真夏日を記録する事が多くなる。
今日も暑くなるのだろう。タタンタタンと規則的なリズムを奏でる電車に心地良く揺られる仰木高耶は、窓から差し込む朝の強い日差しに、その切れ長な瞳を眇めた。
自宅のある最寄り駅から、勤務先の最寄り駅まで数十分。
眠る暇も無く、見慣れた駅名が書かれたホームに青い車体を煌かせる電車が滑り込み、控えめながらも冷房が効いていた電車内から、混雑するホームへと一歩足を踏み出した高耶の眉間に軽く皺が寄る。
(まめに水分補給しないと、そろそろバテそうだな)
気温も高いが湿度も高い。
熱中症患者が多く発生する季節だ。勤務前である今はジーンズにTシャツという涼しい格好だが、勤務中は厚手の繋ぎを着る事の多い高耶にとって、暑い夏は試練の時期でもある。
広い駅舎の南口。『上杉動物園』と大きく書かれた改札口から出た高耶は、徐々に高くなっていく太陽の日差しを浴びながら、勤務先である上杉動物園へと足を向けた。




動物園の飼育係になるのに、学歴はそう必要ない。
もちろん、獣医師としての知識や動物に関する知識があった方が良いが、飼育係になりたいという情熱と、ほんの僅かな切っ掛けさえあれば、高耶のように高校を中退した者でも飼育係になれてしまう。
なれてしまうが、意外に重労働な飼育係が続くかどうかはまた別の話だ。
上杉動物園の職員に与えられている狭いロッカー室内。それまで着ていた私服から、動物園から支給されている青い繋ぎへと着替えた高耶は、最後の仕上げとばかりに、可愛らしい形をしたネームプレートを手に取った。『仰木高耶』と書かれたそれを胸元に着けながら、ロッカー室を後にする。
高耶が上杉動物園の飼育係になって、早くも三年が経とうとしている。
我ながら良く続いていると思うが、目付きが悪く無愛想な自分には、動物たちと接する仕事が合っていたのだろう。
自分でも驚くほど真面目に仕事をしていたからか、今年の春からは一人前の飼育係として、ある動物の世話を担当させて貰っている。
上杉動物園の中央付近。亜熱帯を思わせるたくさんの緑に囲まれた舎屋が、高耶の担当するホワイトタイガーたちの棲み処だ。
朝一番の仕事である舎屋の掃除を早々に終わらせた高耶は、人肌に温めたミルクを二本作り、それを片手に舎屋の裏手へと向かった。涼しい木陰に設置されたベンチに座り、腕に抱えていた二匹の仔トラを、胡坐を掻いた膝の上にそれぞれ下ろす。
ふわふわの白い毛を心地良い風に靡かせる仔トラたちは、五月に生まれたばかりのオスの幼獣だ。
大人しい方が小太郎、活発な方が潮と名付けられている。
高耶が手に持つミルクを強請る様は愛らしく、普段は無愛想な高耶が思わず顔を綻ばせてしまう程だが、本来ならば母トラの愛情の元で育つべき彼らは、だが、母トラの育児放棄という憂き目に遭っていた。
胡坐を掻いた高耶の膝の上。ミルクを懸命に飲む仔トラたちを見下ろす高耶の瞳が、ふと愛おしそうに眇められる。
「・・・へぇ。手馴れたもんだな」
そんな高耶の背後。不意に聞こえて来たのは、回診に来たのだろう。上杉動物園で獣医師を勤める千秋修平の声だった。
千秋のその言葉を聞いた高耶は、顔を上げないまま、ふと小さく苦笑を浮かべて見せる。
幼な過ぎる仔トラたちは、母トラから育児放棄されては生きてはいけない。
やむを得ず、人の―――高耶の手で育てられる事となった仔トラたちであるが、最初から高耶に懐いていた訳ではない。
母トラが恋しかったのだろう。仔トラたちは少し前まで、高耶の手からミルクを飲む事を嫌がっていた。
「最近やっと慣れてくれたんだ」
甲斐甲斐しく二匹の世話をし、諦める事無く根気強くミルクを与え続けていた事が効を制したのか、仔トラたちが高耶の手からミルクを飲んでくれるようになったのはつい最近だ。
ベンチに胡坐を掻いて座る高耶の前。首の後ろで緩く結んだ長い茶髪を揺らして座り込み、仔トラたちがミルクに夢中になっているのをこれ幸いと触診する千秋が、「よし」と言って笑みを浮かべて見せる。
「食欲もあるし元気いっぱいだな」
それを聞いた高耶は、内心ホッと安堵の溜息を零していた。
羽織った白衣の下。獣医師にあるまじきガラの悪いシャツを身に纏い、口も悪いが、千秋の獣医師としての腕は確かだ。
少し前までミルクを拒否していた事もあり、仔トラたちの体重が少ない事が気掛かりだったが、千秋がそう言うのなら大丈夫なのだろう。
早くもミルクを飲み終えたらしい潮が、背を撫でていた千秋の手にじゃれ付き始め、幼いながらも鋭い爪を持つ仔トラの前足を器用に避ける千秋が苦笑する。
「こらこら、俺様は忙しいのよ。ママに遊んで貰え、ママに」
それを聞き、小太郎が飲み終わるまで待っていた高耶の眉間に、途端に深い皺が寄った。
「誰がママだ」
千秋を見上げる高耶の昔を彷彿とさせる睨みも何のその。
「お前だろ?」
悪戯っぽい笑みを浮かべてそう返した千秋が、よいしょと立ち上がる。
「育児。頑張れよ」
慣れない育児に苦心している高耶を応援してくれているのだろう。小さく笑みを浮かべる千秋から、思いも寄らない言葉を掛けられた高耶の口元に面映い笑みが浮かぶ。
「ぉう」
応援されるのは照れ臭いが、仔トラたちの母親と認められたようで単純に嬉しい。
短くそう返した高耶の黒髪。それをぐしゃぐしゃと遠慮無しに掻き回した千秋は、「じゃあな」と言い置き、羽織った白衣を翻しながらホワイトタイガー舎屋の方へと歩いて行った。