感謝の日 2






上杉動物園の閉園時間は遅い。
昼間は寝てばかりな動物たちも、夜になると活発になる。そんな動物たちの様子も観察出来るようにという、上杉動物園の園長である色部の計らいだ。
閉園時間が遅くなれば、自然と職員たちの帰る時間も遅くなる。
高耶のように独り暮らしだとなおの事。飼育係としてまだまだ未熟な高耶は勉強しなくてはならない事がいくつもあり、舎屋に最後まで残っているのが常だった。
あと二時間もすれば日付が変わってしまうという頃、最寄り駅から自宅アパートへと続く道を歩く高耶は、その途中で煌々と明かりの点るコンビニに寄った。
「お帰りなさい、高耶さん」
ドアを開けて中に入ろうとした途端、聞き覚えのある声の主から名を呼ばれ、小さく笑みを浮かべる高耶は背後を振り返る。
「おぅ」
そんな高耶の視線の先。鳶色の瞳に栗色の髪を揺らし、柔らかな笑みを浮かべて歩み寄って来るその男は、170cmを悠々と超える高耶よりも頭一つ分背が高い。
モデルをしていると言われても納得しそうな程体格の良い身体に、品の良いサマージャケットを羽織るこの優男は、名を直江という。
ご近所さんでありながら数ヶ月前まで何の接点も無かった二人は、だが、五月の直江の誕生日に知り合って以降、会えば挨拶と多少の会話をするようになっていた。
「またタバコ買いに来たのか?」
直江の手にあるホワイトタイガーのぬいぐるみは、誕生日の夜、上杉動物園のホワイトタイガー舎屋前で振られてしまった直江の為に高耶が贈ったものだ。
そのぬいぐるみに付けられた鍵だけを直江が持っているという事は、またタバコだけを買いに来たのだろう。
以前は毎日のように喫煙していた高耶だが、上杉動物園に関わるようになってからは禁煙している。
動物たちは匂いに敏感だからだ。
「身体に悪いぞ」
過去の自分は棚上げする高耶は、直江と共に店内へと入りながらそう告げ、いつものようにお弁当コーナーへと向かう。
「高耶さんの方こそ、またコンビニ弁当ですか?」
すると、苦笑したらしい直江からそんな反撃を受けてしまった。それを聞いた高耶は、ぐっと詰まる。
直江に会うたび、コンビニ弁当を買っている所を見られているのだ。直江の言い分は尤もだが、高耶は好きでコンビニ弁当を買っている訳ではない。
「仕方ねぇだろ?自炊したくても、こんな時間じゃこの辺のスーパー開いてねぇんだから」
僅かに唇を尖らせる高耶は、野菜が比較的多く入っている弁当と缶コーヒーを手に取り、タバコを買う直江が居るレジへと向かう。
「高耶さん、自炊出来るんですか?」
高耶が自炊しているとは思ってもいなかったのだろう。意外だという表情を浮かべる直江からそう問い掛けられた高耶は、その動きをピタリと止めていた。店員からお釣りを受け取っている直江を軽く睨み上げる。
「自慢じゃねぇが、オレは自炊歴十年以上だぞ。休みの日はちゃんと自炊してる」
年上だろう直江に対し、随分と偉そうな態度だと自分でも思ったが、直江は気にしなかったらしい。
「それは凄いですね」
それどころか本気で感心されてしまい、直江から笑みを向けられた高耶は面映くなる。
「・・・そう言うお前はどうなんだよ」
清算を終えた直江に代わり、レジのカウンターに持っていた弁当と缶コーヒーを置く高耶がそう問い掛けると、それを聞いた直江から盛大な苦笑が返って来た。
「私は全然」
温めますかという店員の言葉に頷き返しながら、高耶はだろうなと苦笑する。
生活感が無いからだろう。この男が台所に立つ姿は全く想像出来ない。
(女に作ってもらってる姿なら簡単に想像付くけどな)
弁当を温めて貰っている合間、代金を清算しながらそんな事を考えていると、そんな高耶の傍らから、思いも寄らない言葉が聞こえて来た。
「外食ばかりですから、高耶さんの事をどうこう言えないんですけどね」
それを聞いた高耶は思わず、店員からお釣りを貰う手はそのままに、傍らに立つ直江を見上げてしまっていた。そんな高耶に気付いた直江が小さく首を傾げる。
「何か?」
「・・・いや、てっきり女に作ってもらってるもんだとばっかり」
驚き過ぎた高耶が馬鹿正直にそう答えると、鳶色の瞳を和らげる直江は小さく苦笑して見せた。
「自宅には連れ込まない主義なんです」
それを聞いた高耶の瞳が胡乱気に眇められる。
「・・・あっそ」
嫌味な程に良い男だが、直江の女癖はあまり良くないらしい。
誕生日のあの日の夜。直江が何故振られたのか分からなかったが、その人となりを多少知った今なら分かる気がする。
(そのうち刺されるんじゃねぇか?こいつ)
温められた弁当を受け取る高耶が他人事ながらそんな心配をしていると、先に立ってドアを開けてくれていた直江から、「あの」と声を掛けられた。コンビニの出入り口だからと、直江の傍らを足早に通り抜けていた高耶の足が止まる。
「なに?」
「食材を提供したら、食事を作ってもらえますか?」
良い事を思い付いたと言わんばかりの表情を浮かべる直江から、言葉の意味が良く分からない事を告げられ、高耶の思考が一瞬停止した。
「・・・は?」
コンビニの出入り口で立ち話をしていたら邪魔になる。
とりあえず移動しようと再び歩き出しながら、聞き間違いかもしれないと聞き返した高耶に対し、後を着いてくる直江は突拍子も無い事を言い出した。
「食材さえあれば自炊出来るんですよね?経費は私が持ちますから、高耶さんの分のついでに私の分まで作ってもらえませんか」
それを聞いた高耶は呆れ返る。
会えばこうして会話しているが、高耶と直江は詳しい住所も電話番号も、メールアドレスすら知らない仲だ。
そんな相手に、食事を作って欲しいと頼む直江の常識を疑ってしまう。誰にでも言っているのだとしたら、あまりにも危機感が無さ過ぎる。
「・・・おい、」
もしかすると、自炊出来ないと嘆いた高耶の為に言い出した事なのかもしれないが、赤の他人である直江がそこまでする必要も道義も無い。
直江の申し出はありがたいが、断るついでに少々説教しようと振り返った高耶の視線の先。
「一人分作るのも二人分作るのも、手間はそう変わらないと思うんです。もちろん、作っていただいた分のお代は払いますから」
手料理に余程餓えているのだろうか。
どこか必死な表情を浮かべる直江から続けざまにそう告げられた高耶は、漆黒の瞳を僅かに見開いていた。直江の勢いある言葉と眼差しに圧倒される。
「おい、直江。ちょっと待てって・・・っ」
「・・・駄目ですか?高耶さん」
本気なのだろう。真剣な表情を浮かべる直江からそう告げられた高耶は、咄嗟に断りの言葉を口にする事が出来なかった。