感謝の日 3






高耶の帰りは、定時で上がったとしても二十時と、夕飯には少し遅い時間だ。
動物たちに何かがあれば、日付が変わってしまう程に遅くなったり、帰れなかったりする事もある。
少々の説教と共にそう言って、直江の申し出を丁重に断った高耶だが、直江はその時は連絡して貰えれば外食すると言って食い下がった。
他でもない高耶だから頼んでいる。それに、自分も帰宅するのはだいたい二十時前後であり、夕飯の時間が多少遅くなったとしても全く構わないと。
外堀を完全に埋められ、断る理由が無くなってしまった高耶は、大きな溜息を吐きながら空に浮かぶ月を仰ぐ。
離れて暮らしている妹に毎月仕送りしており、常に金欠に喘いでいる高耶にとっては願っても無い申し出だ。食費が浮くというメリットは捨て難い。
二人分の食材の費用だけ直江に出してもらい、その食材を使った食事を高耶が提供すれば、外食ばかりらしい直江にとっても不利益では無いだろう。
「・・・分かった。作ってやるよ」
高耶の返答を待っている直江に視線を戻し、小さく苦笑する高耶がそう告げると、それを聞いた直江の顔が途端に綻んだ。
「本当ですか」
「あぁ」
嬉しそうな直江に苦笑を深めながら、家へと続く道をゆっくりと歩き出す高耶は、背後から付いて来る直江に声を掛ける。
「それで、どっちの家で作るんだ?」
「高耶さんの都合の良い方で構いませんよ」
高耶の隣にすぐに並んだ直江から笑みと共にそう告げられ、高耶は僅かに逡巡する。
直江が食材を買って高耶の帰りを待っていてくれるのなら、高耶の家に直江を呼ぶよりも、仕事帰りの高耶が直江の家に寄り、そこで作った方が効果的だろう。
「ケータリングですね」
自らの生活習慣と照らし合わせた結果、直江の家で作った方が効果的だと高耶が伝えると、それを聞いた直江は何故か嬉しそうに笑ってそう言った。
「ですが、私の家に必要な器具が揃っているかどうか・・・」
少々不安そうな表情を浮かべる直江からそう続けられ、高耶はこの男に生活感が全く感じられ無い事を思い出す。
「それもそうだな。一度台所を見せてくれ」
もしかすると直江の家には、鍋どころか炊飯器すら無いかもしれない。
そんな危機感を覚えた高耶がそう告げると、小さく首を傾げる直江から「これから来ますか?」と誘われた。
「いいのか?」
「もちろんです。美味い珈琲をご馳走しますよ」
どうやらこの男、料理はまるで駄目らしいのに、珈琲だけは上手く淹れる事が出来るらしい。
自信たっぷりにそう言われ、それを聞いた高耶は小さく噴き出す。
「じゃあ、遠慮なく」
くつくつと笑いながらそう返した高耶は、見えて来た直江のマンションへと視線を向けた。




高耶がこの街に住み始めて三年が経つ。
辺りでも一際高いこのマンションが建ったのは、確か、一年程前だっただろうか。
都心にありながら広々とした空間を―――と銘打たれた折り込みチラシには、フィットネスジムや屋内プールなど、高耶には縁遠い世界が広がっていた記憶がある。
ホテルと見紛うようなエントランスを通り抜け、エレベーターに共に乗り込んだ直江が最上階のボタンを押す。程なくして到着した最上階の広々としたフロアには、恐ろしい事に玄関の扉が二つしか無かった。
「・・・お前って何やってる人?」
直江の身なりから裕福そうだとは思っていたが、ここまでとは思っていなかった。
絶句していた高耶が僅かに掠れた声でそう問い掛けると、シンプルにデザインされた玄関の鍵穴に、ホワイトタイガーのぬいぐるみが付いた鍵を差し込んでいた直江が苦笑した。
「出版社に勤めている普通のサラリーマンですよ。この部屋は親から生前贈与されたものなんです」
直江のその言葉と共にカチャンと小さく音を立てて鍵が開かれ、扉を開けた直江が「どうぞ」と中へと促してくれる。
「お邪魔します」
玄関から続く廊下の先。
リビングなのだろう。広々とした部屋の中央付近にはアイボリーのソファとシックなローテーブルが配置され、カーテンが開け放たれたままの窓の外では綺麗な夜景が広がっていた。
部屋も広ければキッチンも広い。
空かと思われた棚の中には大量の調理器具が納められており、黒いカウンターと繋がっているキッチンは使い勝手が良さそうだった。
「親が色々と用意してくれたんですが、全く使ってないんです」
料理好きには堪らない調理器具ばかりだ。
それらに使われた形跡が全く無い事を指摘すると、食器を検分する高耶の傍らで薫り高い珈琲を淹れていた直江は、小さく苦笑しながらそう言った。
「・・・もったいねぇ」
宝の持ち腐れとはこの事だ。
呆れる高耶がそう告げると、多少なりとも自覚があるのだろう。苦笑を深める直江から「使ってやって下さい」と返された。
「器材は充分だ。食器もあるし、あとは食材さえあれば明日からでも来れるぜ」
食器の検分を終えた高耶は、そう言いながらカウンター側のハイチェアに腰掛けた。直江が差し出す珈琲を受け取る。
「メモして下されば買って来ますよ」
すると、自分の分の珈琲をカウンターの上に置いていた直江が、カウンター上に置いてあったメモ紙とペンを差し出した。
「・・・お前って、アレルギーとか好き嫌いとかってある?」
差し出されたメモ紙とペンを受け取った高耶は、必要な物を書き出していきながら、隣に腰掛けた直江へとそう問い掛ける。
「特にありません」
「じゃあ、和食と洋食と中華。どれが良い?」
手元から顔を上げない高耶が続けてそう問い掛けると、「高耶さんが得意な料理で構いませんよ」と返された。
「なら、和食な」
和食は高耶の十八番だ。
必要な食材を書き終えた高耶がメモ紙を「ん」と差し出すと、それを読んでいた直江の首が小さく傾ぐ。
「ケーキも・・・ですか?」
「小さいので構わねぇから」
直江の疑問も当然だ。
不思議そうな表情を浮かべる直江からの問い掛けに、そう答える高耶は小さく苦笑する。
「明日、オレの誕生日なんだ。一緒にメシ食うついでに祝ってくれよ」
まだ良く知らない間柄なのに、こんな事を言われたら迷惑かもしれない。
そう思いながらもそう続けると、鳶色の瞳を僅かに見開いていた直江はすぐに、「もちろんです」と嬉しそうな笑みと共に快く了承してくれた。