I want you, you want me 3






用の無くなった救急箱を片付ける。
「手当ても無事済みましたし、家までお送りしますよ。もう遅い時間ですし、殆ど誘拐みたいなものでしたからご家族も心配されているでしょう?」
救急箱を手に立ち上がった直江がそう告げた途端、彼の身体がピクンと僅かに震えた。きつく寄せられた彼の眉を直江が疑問に思うその前に彼がスッと俯き、顔を覆う前髪で表情が伺えなくなる。
「・・・どうかしましたか?」
直江の問い掛けに彼が顔を上げる。それを見た直江は何て顔だと思った。
きつく眉根を寄せ、縋るように直江を見上げてくる彼は、それまでの強気な態度が嘘のように頼りなく見えた。
「もう少しだけ・・・もう少しだけ、ここに居ちゃダメか・・・?」
その表情と同じく、不安そうに震える彼の声。
「・・・帰りたくないんだ・・・」
そう言いながら再び俯いた彼のその姿は、例えようも無く淋しそうに見えた。
手に持っていた救急箱をテーブルに置き、彼の隣に座る。ソファが僅かに揺れ、彼がおずおずと視線を向けてくる。
「・・・どうして帰りたくないんですか・・・?」
小さくそう訊ねる。だが、話したくないのだろう。彼はその問いには答えず再び俯いてしまった。
ようやく彼が信頼し始めてくれているのに、無理に問うと再び頑なになってしまうかもしれない。そう思った直江は、ふと小さく笑みを浮かべた。
「・・・構いませんよ。貴方が居たいだけここに居ればいい」
直江のその言葉に彼が勢い良く顔を上げる。
「いいのか・・・?」
帰りたくないと言ったのは彼のくせに、遠慮がちなその言葉に苦笑する。
「貴方を無理矢理ここに連れて来たのは私です。遠慮なんてしなくていいんですよ」
そう告げると、彼はホッとしたようだった。表情が和らぐ。それを見て直江も内心ホッとしながらソファから立ち上がる。
「もう遅い時間ですし、そろそろ寝ましょうか。あぁでも、客室は荷物置き場状態だったな・・・」
ここに引っ越して来てまだ日が浅い。誰も訪ねてくる予定は無かったから、客室には解いていないダンボールが所狭しと置いてある。
ベッドはある事にはあるのだが、周りをダンボールに囲まれている為、寝るには少々支障があるだろう。
どうするかと考え出した直江を、彼が「いや」と見上げてくる。
「無理言って泊まらせて貰うんだから、ここで充分だ」
そう言った彼が、座っているソファをポンポンと叩く。
「そこでいいんですか?」
「ああ」
確かに大き目のソファだから、一晩だけならここでも大丈夫だろう。
「それでは、申し訳ありませんが今晩はそこで。明日からはベッドが使えるようにしておきますね」
直江のその言葉に、見上げてきていた彼が僅かに目を見開く。それに気付いた直江は僅かに首を傾げた。
「・・・本当に、オレが居たいだけここに居てもいいのか・・・?」
直江を見上げ、不安そうにそう訊ねて来る彼に苦笑してしまう。
「・・・言ったでしょう?好きなだけここに居て下さって構いませんよ」
そう言いながら手を伸ばし、見上げてくる彼の黒髪を撫でる。乾いた彼の髪はしなやかで、手に心地良かった。
「・・・毛布、持ってきますね」
彼から離れたがらない手を何とか離す。そうして直江は、客用の毛布が置いてある客室へと向かった。





翌朝。
ふと目覚めた直江は、枕元にある時計に目を遣るなり大きく溜息を吐いていた。
(しまった・・・)
休日は目覚ましのアラームが鳴らない事をすっかり忘れていた。時刻は午前9時をとうの昔に過ぎている。
いつもならまだ惰眠を貪っている時間だが、今は家に客人が居る。彼はもう起き出してしまっているかもしれない。急いでベッドの上に起き上がり耳を澄ませてみるが、まだ眠っているのか、直江の耳には何の音も伝わってこなかった。
小さく安堵の溜息を吐く。直江はベッドから降りると、とりあえず顔を洗おうと寝室のドアを開け、洗面所へと向かった。
その途中、リビングのドアの前で立ち止まる。目に映るその光景に、直江はしばし動けなくなっていた。
ガラス製のドアの向こう。リビングのカーテンは全て開けられ、明るい日差しが注ぎ込んでいた。窓が少し開けられているのだろう。レースのカーテンが僅かに揺れている。
その僅かな風に黒髪を靡かせながら、眠っているとばかり思っていた彼がその両手に皿を持ち、キッチンの方からリビングへとやってくる。
柔らかな日差しが降り注ぐテーブルの上には一通りの朝食が並んでおり、それに気付いた直江は急いでリビングのドアを開けた。
「はよ」
リビングに入ってきた直江にチラと視線を向けた彼が、短くそう挨拶をしてくる。
「・・・おはようございます。あの、これは・・・?」
「悪ぃ、台所勝手に使わせて貰った」
「それは構いませんが・・・」
彼が両手を塞いでいた皿をテーブルの上に置く。
「世話になってばっかじゃ申し訳ないから、飯作ったんだ。冷めちまうから、早く顔洗って来いよ」
そう直江に言い置いて、彼が再びキッチンへと消える。それを呆然と見送っていた直江だったが、漂ってきた美味しそうな匂いにつられるようにテーブルへと視線を向けた。
(凄いな・・・)
男の一人暮らしだ。冷蔵庫には碌なものが無かったと記憶しているのだが、テーブルの上には充分朝食と言えるものが並んでいる。
プレーンオムレツとサラダが少々。レトルトのものがまだあったのだろう。温かいスープと、それから、酒のつまみ用にと買い置いてあった近所で美味しいと評判のバケット。
朝食は滅多に食べないのだが、その光景に珍しく食欲をそそられた。
彼に言われた通り、顔を洗ってこよう。そう思った直江はリビングを出て、洗面所へと向かった。