支えてくれる暖かな手 3 金属製のハンドリム。その冷たさが、リハビリで疲れた掌に心地良い。 リハビリ終了後、車椅子に乗ったカカシは、リハビリテーションの一面を占める大きな窓へと車椅子を進めていた。 外では、水の入ったバケツを逆さにしたような激しい雨が降っている。夏場特有の夕立だ。 時折、遠くで光るのは稲妻だろう。腹に響く、地響きのような雷鳴が徐々に近付いてきているのが分かる。 薄暗い空を時折走る光。 それをぼんやりと眺めていたカカシの耳に、不意にイルカの声が聞こえてくる。 ―――雷が好きなんですか? 初夏の頃だっただろうか。リハビリ終了後の散歩の途中、夕立に降られてしまった事があった。 急いで建物の軒下へと避難し、そこから雷鳴轟く激しい雨をしばらく二人で眺めた。 その時、あちらこちらで走る稲妻を視線で追っていたカカシに気付いたのだろう。車椅子の脇にしゃがみ込んだイルカが、不思議そうな表情でカカシを見上げてきた。 その時に訊ねられたのだ。雷が好きなのかと。 ―――ホラ、凄く綺麗でしょ?すぐに消えちゃう稲妻が花火みたいで。 変な人だと呆れられただろうかと小さく苦笑してそんな事を言ってみると、イルカは驚いたという表情を浮かべた。カカシを見つめたまま、小さく感嘆の溜息を零す。 ―――・・・そんな風に考えた事はありませんでした。 そう言ったイルカがカカシから視線を逸らし、稲妻が走る空を見上げる。 ―――・・・本当だ。凄く綺麗ですね。 空を見上げたまま柔らかな笑みを浮かべてそう告げるイルカのその横顔に、カカシは胸が暖かくなるのを感じ、小さく笑みを浮かべていた。 空に稲妻が走る。途端、背後で上がる悲鳴は女性たちのものだ。口々に怖いと言う女性たちの声を聞きながら、カカシはふと小さく笑みを浮かべていた。 今ここにイルカが居たなら、きっと言う。 ―――綺麗ですね。 あの時と同じく、柔らかな笑みを浮かべてきっと言う。 背後から聞こえてこないイルカのその声が、今とても聞きたいとカカシは思った。 ベッド上方から注がれる読書灯の柔らかな光に愛読書が照らされている。 膝の上で開いたそれに視線を落とし眺めてはいるが、カカシはそれを読んではいない。 消灯時間はとうの昔に過ぎている。一度は眠ろうと横になったのだが眠れず、カカシは最後の巡回が終わった夜半過ぎ、とうとう上体を起こしてしまっていた。 その心を占めているのは、イルカの事ばかりだ。 イルカに会いたい。 そう強く思う自分に、カカシは少し戸惑っている。 今、胸の中にあるこの気持ちを、カカシは知っていると言えば知っている。だが、それを男性であるイルカに向けるのは躊躇われた。 確かに、イルカには好意を持っている。誠実で前向き。そして、細やかな心遣いで接してくれるイルカに好意を持つなという方が難しい。 だが、それが恋愛感情だとは思っていなかった。 違うかもしれない。リハビリを始めてから、イルカと触れ合う時間が長かった。特殊な環境に置かれて、一番身近にいるイルカにカカシは勘違いをしてしまっただけなのかもしれない。 愛読書を見つめるカカシの眉根が、不意にきつく寄せられる。 もしかしたら。 カカシの勘違いに気付いて、イルカはカカシから離れたのだろうか。 もしそうだとしたら、これから先、イルカがカカシに近寄る事は恐らく無いだろう。担当も既に代わってしまっている。リハビリテーションで会う事があっても、イルカはカカシではなく別の患者を補助するのだ。 カカシではなく別の患者を。 「・・・っ」 イルカが他の誰かの補助をしている姿を想像した途端、胸が切ないほどに痛み出し、カカシは奥歯を噛み締めた。 誰かがイルカに触れるのが嫌だと思うこの想いは、やはり恋なのかもしれない。 イルカに会ってそれを確かめたい。だが、この足はまだカカシの言う事を聞いてはくれず、会いに行けない自分がもどかしい。悔しい。 愛読書から顔を上げる。すりガラス越し、廊下の明かりが漏れる病室の扉を見つめるカカシから小さく溜息が漏れる。今のカカシにとっては、そこにある病室の扉すらも遠いのだ。 思うようにならない自分の身体に歯噛みしたその時だった。 扉のすりガラスに人影が映った。 もう巡回は終わったと思っていたが、読書灯が点いている事に気付いた看護師だろうかとカカシがそう思ったのは一瞬だった。カカシの瞳が驚きに見開かれる。 入るかどうか迷っているらしい俯いた影の天辺で、尻尾が揺れている。そのシルエットを見たカカシの胸に、溢れんばかりに湧き起こった感情。一言で言えば”愛しい”だ。 会わずとも、その影を見ただけで自分の気持ちが分かってしまった。思い知らされた。 カカシの口元にふと小さく苦笑が浮かぶ。 「イルカ先生・・・?」 いつまでも入ってこないイルカの影にそっと声を掛ける。すると、ビクリと揺れた影が扉からスッと離れていこうとした。 それに気付いたカカシは慌てた。 せっかくイルカの方から会いに来てくれたのだ。しかも、こんな夜中に。ここでイルカを帰しては絶対に駄目だ。急いで身を乗り出す。 「待って!帰らないで・・・ッ!」 焦っていたからだろう。身を乗り出したカカシのベッドの端に置いた手がそこから下へと滑り落ち、カカシはその瞳を見張った。 上体のバランスを崩したカカシの視界が揺れ、頭から床へと落ちていく。 きつく目を閉じた次の瞬間、ドンッと身体に衝撃が訪れたカカシは息を詰めた。 「・・・ッつ・・・ぅ・・・」 咄嗟に腕を回し頭だけは庇ったが、肩を酷くぶつけてしまった。小さく身体を丸め、痛みに呻いたカカシの耳に病室の扉が開く音が聞こえてくる。それと。 「カカシさん・・・ッ」 イルカの焦ったような声。それが耳に届くと同時に、身体に暖かな手が添えられた。イルカの匂いに包まれる。 「大丈夫ですか!?頭・・・っ、頭を打ったんですか!?」 すぐ近くで聞こえるイルカのその声に、カカシは痛みに眉根をきつく寄せながらも、小さく笑みを浮かべて見せた。 「だい・・・じょうぶ・・・。肩を打っただけ・・・」 「・・・っ。ちょっと待っててください。今、看護師を呼びますから・・・っ」 そう言ったイルカが、ベッドの上にあるナースコールに手を伸ばそうとする。それに気付いたカカシは、肩が痛むのも構わず咄嗟にその手を掴んでいた。 今、看護師に来られたりしたら、イルカと話が出来なくなる。それに、この状況ではイルカが責任を問われてしまう。 イルカの手を掴んだまま、カカシはふると首を振った。 「いい・・・から」 「でも・・・っ」 上体を起こそうとするカカシの身体を支えながら、泣きそうな顔をして見下ろしてくるイルカに苦笑する。一つ息を吐いて呼吸を整え、イルカを見上げる。 「ホントに大丈夫ですから。・・・それより、ベッドに戻して貰えませんか・・・?せっかくイルカ先生が会いに来てくれたんです。あなたと話がしたい」 小さな声でイルカにそう告げる。 「話が終わったら、看護師さんを呼んでいいから。・・・ね?」 カカシの怪我を心配してくれているのだろう。躊躇っているイルカに、さらにそう告げると、イルカはようやく一つ頷いてくれた。 |
← | → |