時を越えて 4 五月も半ばを過ぎると、ただ歩いているだけで額に汗が滲む。 暑い夏はもうすぐそこまでやって来ているのだろう。黄昏色に染まる空には、夏を思わせる雲が湧き上がっていた。 ここ数日夏日が続いており、気温も高いが湿気も多い。 そろそろ梅雨入りする頃だ。雨が降っても良さそうな蒸し具合だったが、見上げた空に雨雲は無く、今日も農耕地に水を引く低ランク任務が多く舞い込んで来ていた。 終業直後。報告書を提出する者たちで未だ賑わう受付所を後にしたイルカは、二人分の食材を買う為、いつものように商店街へと向かった。様々な野菜が並ぶ八百屋の前で、今日の晩飯は何にしようかと悩む。 過去から跳んで来たサクモと夕飯を共にするのも、もう何度目だろうか。 イルカが教師をしていると告げて以降、サクモから「イルカ先生」と呼ばれるようになっている。 声や相貌がカカシに良く似ている事から、カカシと食事を共にしているような感覚を覚えるが、当のカカシは遠い任地だ。 (・・・カカシさん・・・) 旬の食材である春菊を手に、カカシを想うイルカの漆黒の瞳が僅かに眇められる。 カカシが今回の任務に就いて早くも一ヶ月。受付所に居れば逐一情報が入って来るが、あまり思わしくない戦況となっている事が気掛かりだった。 ずっと続いている胸騒ぎも気になるが、心配性な自分の考え過ぎだろう。 そう自分に言い聞かせるイルカが、徐々に大きくなって来る胸騒ぎを払拭しようと軽く首を振った時。 「イルカ先生」 聞き覚えの無い声で名を呼ばれたイルカは、僅かに俯いていた顔を上げた。声がした方向へと視線を向ける。 その視線の先。 (・・・誰だ・・・?) 中忍以上が支給されるベストを身に纏い、長い黒髪を首の後ろで束ねる男から親しそうに笑い掛けられたイルカは、小さく首を傾げていた。 年の頃はイルカと同じくらいだろうか。木の葉の忍であるならば見覚えがあるはずだが、カカシと同じ暗部上がりなら話は別だ。 身のこなしに隙は無く、纏う雰囲気もカカシとどこか似ている。 もしかするとカカシの知り合いなのかもしれないが、自分に何の用事があるのだろう。 「あの・・・?」 誰だと訝しがるイルカを見て、顔に浮かべていた笑みを悪戯っぽく深めた男が、小さく首を傾げて見せる。 「分からない?」 「・・・っ」 その仕草を見て、イルカはようやく目の前に居る男がサクモだと気付いた。漆黒の瞳を大きく見開いたイルカは、手に持っていた春菊を慌てて置き、その代わりにサクモの片腕を取る。 「外に出たら駄目じゃないですか!」 買い物客で賑わう八百屋の軒先。そこに移動したイルカが、周囲に聞かれないよう小さな声でそう詰ると、サクモの顔に浮かんでいた笑みが深さを増した。 「変化してるんだし、散歩くらい良いじゃないか」 「でも・・・っ」 サクモには知られたくない未来がたくさん―――。 当事者であるサクモにそう告げる訳にもいかず、サクモから視線を逸らしたイルカは小さく唇を噛み締める。 「・・・あまり出歩かれるのは困ります」 外に出て欲しくない本当の理由を告げる訳にはいかないが、苦言だけは呈しておかなければ。 そう思ったイルカがそう告げると、それを聞いたサクモはふと小さく苦笑して見せた。 「そんなに心配しなくても良い」 僅かに俯くイルカの肩を大丈夫だと言うようにぽんぽんと軽く叩くサクモが、イルカの顔を覗き込む双眸を柔らかく細めて見せる。 「この時代の事を、私の時代へ持ち込むつもりはないよ。逆もそうだ」 それを聞いたイルカは、サクモもまた、互いの時代の事をきちんと考えてくれているのだと知る。 当然と言えば当然だ。 過去の人間が未来の出来事を知ればどうなるか、サクモ程の人物が考えていないはずがない。 「・・・すみません・・・」 その事に気付かなかっただけでなく、サクモに隠しておきたい未来がある事を、サクモ本人に気付かせてしまった。 僅かに俯くイルカがそれらに対する謝罪の言葉を口にすると、それを聞いたサクモの顔に浮かんでいた笑みが苦笑に変わった。 「今夜はすき焼きにしようか」 気にするなと言うように再度イルカの肩を叩いたサクモが、そう言いながら様々な野菜が並べられている棚に歩み寄り、イルカが持っていた春菊を手に取る。 「美味い物を食べたら元気も出るだろう?」 元気の無かったイルカを気に掛けてくれたのだろうか。 イルカを振り向き、小さく首を傾げるサクモからそう告げられたイルカは、その顔に面映い笑みを小さく浮かべていた。 はいと頷き掛けて、ふと気付く。 「給料日前ですから駄目です・・・ッ!」 金を出すのは自分だ。 焦った表情を浮かべたイルカがそう言いながら大きく首を振ると、そんな事を言われるとは思わなかったのだろう。一瞬だけ驚いた表情を浮かべたサクモから、そんなに笑わなくても良いのにと拗ねたくなった程に笑われてしまった。 結局、サクモに押し切られてしまった。 大き目に切った豆腐と香り高い肉厚なしいたけ、それから、旬の食材である春菊に少々高めの肉。 「給料日前なのに・・・」 ぐつぐつと煮立てられている美味しそうなすき焼きを前にそう呟くイルカは、もう何度目になるか分からない溜息を盛大に吐く。 そんなイルカの食卓を挟んで目の前。 「カカシに請求すればいいじゃないか」 上機嫌で白菜を取るサクモからそう告げられ、カカシが置かれている状況を思い出したイルカは、その表情を僅かに曇らせていた。 そんなイルカに気付いたのだろう。 「・・・心配する事は無い」 ふと小さく苦笑したサクモが、そう言いながら手にしていた取り皿を置き、その代わりに卓上に置かれていた銚子を手に取った。そのままそれを差し出され、イルカは慌てて自らの杯を手に取る。 「必ず帰って来る。大事な人を泣かせるような事はしないよ」 「・・・っ」 小さな杯にカカシ秘蔵の酒が注がれて行く中、僅かに視線を伏せるサクモからそう告げられた途端、イルカの杯を持つ手が僅かに震えた。大きく見開かれた漆黒の瞳が動揺に揺れる。 (俺たちの関係に気付いて・・・っ) 一瞬、誤魔化そうかとも考えたが、サクモ相手に嘘は通用しないだろう。 「・・・隠していてすみません・・・」 動揺から僅かに震える声で小さくそう謝罪すると、酒を注ぎ終えたサクモから、ふと柔らかな笑みを向けられた。 「謝らなくても良い」 カカシとの関係を心悪くは思われていないのだろうか。 サクモの笑みにもその声にも、イルカを非難する響きは一切含まれておらず、自らの視界が揺らぎ始めるのを感じたイルカは、見つめて来るサクモから慌てて視線を逸らした。僅かに俯き、サクモが注いでくれた酒に口を付ける事で、泣きそうになっている自分を懸命に誤魔化す。 到底認められないだろうと思っていたのだ。 カカシとの関係を認められたとまでは言わずとも、否定されなかった事が余程嬉しかったのだろう。 サクモから勧められるがまま酒を飲み、珍しく酔い潰れてしまったイルカはその夜。カカシの生家にあるカカシの匂いがする布団に包まれながら、「この為に呼ばれたのかもしれないな」というサクモの声を聞いた気がした。 |
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