震えるその指先が 中編






夏のうだるような暑さも、夕刻ともなればだいぶ和らぐ。
背後にある窓から吹き込む風を心地良く感じながら、カウンターに着くイルカは受理した報告書の整理を進めて行く。
「そろそろ上がっていいぞ、イルカ」
そんなイルカの傍ら。イルカ同様報告書を整理する同僚からそう告げられ、イルカは交代の時間が近い事を知る。
だが、あと少しで終わるという所まで来ている。
交代するのは、この書類整理を最後まで終わらせてから―――というイルカの考えを読んだのだろう。
「報告書の整理なら俺がやっておくから」
手に持つ書類から顔を上げないイルカが断る前に、小さく苦笑したらしい同僚からそう続けられた。それを聞いたイルカの顔がようやく上がる。
いつもなら断る所だが、忙しくて昼飯をまともに食べてなかったからだろうか。少々腹が減って来ている。
それに、手元にある報告書は残り僅かだ。任せてしまっても負担にはならないだろう。
「そうか?悪いな」
同僚の申し出にありがたく甘える事にしたイルカは、小さく苦笑しながら持っていた報告書を手渡した。カウンターの上を簡単に片付け、愛用の鞄を手に座っていた椅子から立ち上がる。
「お先に」
「お疲れさん」
同僚の声に見送られるイルカが受付所から一歩外に出ると、夕日が差し込む廊下が燃えるような茜色に染まっていた。
溜息が出そうな程に綺麗な光景だ。
窓の外では今まさに太陽が沈まんとしており、緑多い木の葉の里が影のように浮かび上がっている。
眩しさに漆黒の瞳を眇めるイルカが、その光景に視線を囚われる事しばし。
「・・・綺麗ですねぇ」
「・・・ッ」
誰も居ないと思っていた廊下の先から聞こえて来た声に驚いたイルカは、その身体を盛大に震わせてしまっていた。
慌てて振り向いたイルカの視線の先。
「お疲れ様、イルカ先生」
気配を消していたのだろう。イルカ同様窓から差し込む夕日を浴び、凭れていた壁から身を起こすカカシの姿を見止めたイルカは、その漆黒の瞳を僅かに見開く。
「どうしたんですか、カカシさん。こんな所で」
カカシが報告書を提出して数刻が経過している。
とうの昔に帰ったと思っていたが、イルカに何か用事でもあるのだろうか。ふと小さく苦笑したカカシが、読んでいたらしい愛読書をパタンと閉じた。
「あなたの仕事が終わるのを待っていたんですよ」
「え・・・?」
カカシとは長い付き合いだが、待ち伏せされたのは初めてだ。
一瞬、やはり口説かれるのではないかと警戒したイルカだったが、警戒する必要は全く無かったらしい。
「呑みに行きませんか。鶏の美味い店を見つけたんです」
柔らかな笑みを浮かべるカカシから、いつものように呑みに誘われた。それを聞いたイルカは内心、ホッと安堵の溜息を零す。
いつもなら受付所で誘われている所だが、カカシが報告書を提出したのは随分と前だ。
気配り上手なカカシの事だから、あまり早くに誘うとイルカに気遣わせてしまうと思い、受付所では誘わなかったのだろう。
「いいですね」
カカシの心遣いを嬉しく思うイルカが満面の笑みを浮かべながらそう告げると、カカシもまた嬉しそうな笑みを浮かべて見せてくれた。




少し薄暗い店内に、焼き鳥の美味そうな匂いが充満している。
カカシに連れられて向かった居酒屋は、イルカが馴染みにしている居酒屋とは少々趣が異なっていた。
掘り炬燵式のテーブルの上。運ばれて来た料理はどれも美味く、料理だけでなく内装もまた色々と拘った造りになっているらしい。
隣のテーブルとは、季節の花が描かれた麻の暖簾で仕切られており、全席半個室。
女性が好みそうな店だ。
岩塩が使われているという焼き鳥の串を片手に、物珍しく辺りを見回すイルカは、カカシが注文してくれた少し辛口の酒に口を付ける。
料理も美味いが酒も美味い。
やはり元気付けようとして言ってくれたのだろう。目の前に座るカカシの態度も以前と全く変わっておらず、気を遣わせて申し訳ないと思うと同時に嬉しく思うイルカが、自分でも少し飲み過ぎたかと思い始めた頃。
「酒はもう止めておいた方がイイですよ、イルカ先生」
端正なその顔に小さく苦笑を浮かべるカカシから、持っていた杯を奪われた。
「信頼してくれてるのは嬉しいけど、あまり無防備にならないで」
そうも続けられ、言われた意味が良く分からなかったイルカは、何の事だろうかと小さく首を傾げる。
すると、そんなイルカを見たカカシの顔に浮かんでいた苦笑が深さを増した。
「忘れちゃったの?イルカ先生。オレはあなたを狙ってるんですよ?」
「・・・っ」
小さく首を傾げるカカシからそう告げられた途端、イルカの漆黒の瞳が大きく見開かれる。
カカシが本気だった事を知り、驚き過ぎて酔いが醒めてしまった。
「・・・冗談だと思ってました」
しばらく呆然としていたイルカが、僅かに掠れた声でそう告げると、そんなイルカから視線を逸らしたカカシがテーブル上にある銚子を手に取った。
「冗談であんなコト言うほど暇じゃないですよ」
自らの杯に手酌するカカシからそう返され、イルカは動揺に瞳を揺らす。
「でも、今日だっていつもと一緒だったじゃないですか」
頼むから冗談だと言って欲しい。
そう切に願ったが、イルカのその願いが叶えられる事は無かった。手酌を終えたカカシが銚子をテーブルに置き、イルカへと柔らかな笑みを向けて来る。
「今までとは違いますよ。今日のコレはデート」
「・・・っ」
なみなみと酒が注がれた杯を口元に運ぶカカシから、デートという言葉が出て来て絶句した。
「困ります・・・っ」
混乱するイルカが慌ててそう告げると、ふと小さく苦笑するカカシから「どうして困るの」と返されてしまう。
「それは・・・っ」
デートと冠されてさえいなければ、カカシとこうして飲むのは嫌ではない。
嫌ではないが、それを伝えれば、カカシの猛攻は激しさを増すだろう。
逆に嫌だとハッキリ伝えれば、カカシは恐らく―――。
「それは・・・」
徐々に俯くイルカが言い澱んでいると、そんなイルカを見たカカシの顔に浮かんでいた苦笑が深さを増した。
「迷惑なら一言言えば済む話ですよ、イルカ先生」
銀髪を揺らして小さく首を傾げるカカシが、そう言いながら手に持っていた杯をテーブルの上に置く。
「コレ以上付き纏うなって」
「・・・っ」
真っ直ぐに見つめて来るカカシからそう告げられたイルカは、女性に振られたあの日の事を思い出し、膝の上に置いたその手をぐっと握り締めていた。